ペルー副王領とは
ペルー副王領(スペイン語:Virreinato del Perú)は、スペインがアメリカ大陸の領土を統治するために設置した4つの副王領のうち、2番目に創設されたものである。1543年の設立当初は、現在のベネズエラ沿岸部を除く、スペインが支配する南アメリカ全土を管轄していた。
その後、1739年にヌエバ・グラナダ副王領が新設されると、現在のコロンビア、エクアドル、パナマ、ベネズエラにあたる地域の管轄権を失った。さらに1776年のリオ・デ・ラ・プラタ副王領の創設によって、現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアに相当する地域も次々と分離されていき、副王領の版図は縮小していった。
銀が支えた「最も価値ある植民地」
植民地時代の終わり近くまで、ペルーはアメリカ大陸におけるスペイン最大の宝庫とみなされていた。主にポトシ(現ボリビア)の鉱山から産出される大量の銀がヨーロッパへ運ばれ、スペイン王室の財政を大きく支えていたのである。
沿岸の都市リマには、鉱山経営者や交易で富を築いた特権階級の人々が集まり、先住民(インディオ)の強制労働の上に成り立つ搾取的な社会が形成されていた。しかし、手軽な富への依存は、この地域の政治的不安定さの一因にもなった。
加えて、地理的な条件も統治を難しくした。リマが南米西海岸に位置していたためスペイン本国との連絡が制限され、険しいアンデス山脈の地形は、ペルー全土を効果的に支配するうえで大きな障害となったのだ。
フランシスコ・デ・トルドによる安定した統治
1569年から1581年にかけて、ペルー副王領はフランシスコ・デ・トルドという有能な副王による安定した指導を受けることになる。ペルー史上最高の副王と評されるトルドは行政機構を刷新し、先住民に一定の自治的な権利を与えるとともに、鉱業の近代化を推し進めた。
その後継者たち――モンテスクラロ侯(1607~15年在任)、フランシスコ・デ・ボルハ・イ・アラゴン(エスキラーチェ公、1615~21年)、レモス伯ペドロ・アントニオ・フェルナンデス・デ・カストロ(1667~72年)、ラ・モンクローバ伯メルチョル・ポルトカレロ・ラッソ・デ・ラ・ベガ(1689~1705年)――も、その多くが優れた行政官として辣腕を振るい、副王領の安定に貢献した。
18世紀末の危機とトゥパク・アマルー反乱
ところが18世紀後半になると、ペルー副王領は抜本的な改革を迫られる事態に陥る。先住民への過酷な搾取が続いた結果、1780年、ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ――インカの先祖にちなんで自らをトゥパク・アマルーと名乗った人物――率いる、短いながらも激しい流血の反乱が勃発した。
反乱はペルー全域へと波及し、1781年にトゥパク・アマルーが捕らえられて処刑された後も、先住民たちは1783年までスペインへの抵抗戦争を継続し、副王領の経済に深刻な打撃を与えた。
独立への道とアヤクチョの戦い
沿岸部は将軍ホセ・デ・サン・マルティンの進軍に対して十分な防衛態勢を敷けず、サン・マルティンがリマに入城した1821年7月、ペルーのスペインからの独立が宣言された。
そして1824年12月9日、アンデス高地で行われたアヤクチョの戦いにおいて、兵力と武器で優位に立っていたはずのスペイン王党派軍が、アントニオ・ホセ・デ・スクレ率いる革命軍に敗北した。ペルー副王とその将軍たちは捕虜となり、かつて南米の大部分を覆っていたペルー副王領はここに幕を閉じた。その残余の領域は、ペルーをはじめとする南米の独立国家へと引き継がれていくことになる。
副王領が現代に残した遺産
約280年におよぶスペインの統治は、南米に深い文化的痕跡を刻んだ。旧首都リマの旧市街は「リマ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されており、コロニアル様式の教会や修道院、バルコニー付きの邸宅が当時の面影を今に伝えている。スペイン語やカトリック信仰、そして先住民文化と融合した独自の食文化などもまた、ペルー副王領の時代にルーツを持つ貴重な遺産なのである。