古代の歴史

アレシアの戦い――カエサルの勝利はいかにして伝説となったのか

アレシアの戦い――カエサルの勝利はいかにして伝説となったのか

紀元前58年からガリア征服に乗り出したユリウス・カエサルは、さまざまなガリア諸部族との戦いを重ねながら優勢を保っていた。しかし紀元前52年、ウェルキンゲトリクスのもとに結集したガリア勢力は、ついにローマ軍への総反撃を決意する。

若き指導者ウェルキンゲトリクスとアレシアへの撤退

若きガリアの指導者ウェルキンゲトリクスの手には大軍が握られており、騎兵だけでも1万5千人を数えた。それにもかかわらず、その後の小競り合いではカエサルの部隊が勝利を収めたため、彼は軍をアレシアへ退かせることを決断する。アレシアは現在のディジョン近郊、丘の上に築かれた都市だった。

ローマ軍の圧倒的な包囲網

5万人を擁するとはいえ強襲による攻略は不可能と判断したカエサルは、組織的な包囲戦へ移行した。兵士たちはまず要塞化された野営地を築き、続いて全長約8キロに及ぶ防御工事で街を取り囲んだ。包囲線上には23の砦が設けられ、籠城側を監視・統制したのである。

もちろんウェルキンゲトリクスも黙ってはいなかった。騎兵による襲撃でローマ軍の築城作業を妨害しようとしたのだ。そのうちの一度は本格的な戦闘に発展したが、ここでもカエサルが勝利し、ガリア勢は大きな損害を出して自陣へ押し戻された。

救援軍を呼ぶ決断

敗北後、ウェルキンゲトリクスは増援を求めることにした。全ガリアの諸族へ使者を送り、「アレシアへ急行し、南からローマ軍を撃て」と要請したのである。彼にはもはや他の選択肢がなかった。8万の兵とともに籠城してはいたものの、食料はわずか30日分しか残っていなかったからだ。

二重の防衛線

ガリアの救援軍接近を知ったカエサルは、目を見張る規模の防衛線構築を命じた。ローマ軍は二列の濠と土塁を築き、木壁と櫓で補強した。土塁の上には先端を削った木杭が並べられ、五列の濠の中間地帯にも罠が仕掛けられた。同時に八列の濠が掘られ、そこにも低い尖った木杭が埋め込まれ、さらに鉄の鉤をつけた杭を隠した溝まで作られたのである。

この要塞地帯は完全に閉ざされており、籠城軍の脱出にも、到着が予想されるガリア援軍の攻撃にも対応できるものだった。実際、ガリア側はアレシア城内の8万に加えて、約15万人の兵力を集めていたのである。

城内の悲劇

一方、アレシア城内の状況は悪化の一途をたどった。小麦は尽き、救援軍の姿は見えない。そこで首長たちは会議を開き、恐るべき決断を下す。抵抗を長引かせるため、老弱や病人など武器を持てないすべての民を城外へ追い出したのだ。

何千人もの老人、女性、子どもたちが城壁とローマ軍の防御線のあいだに追い詰められた。彼らは数日のうちに飢えに苦しみ、膝をついてローマ兵に懇願した。「奴隷としてでも陣営に入れてほしい、食料を恵んでほしい」と。しかしカエサルは、ガリアの民間人が一人でも陣営に入ることを固く禁じた。自軍の食料ですら十分ではなく、来襲が予想されるガリア軍に包囲されれば、確実に食糧問題に直面するからである。

ガリア救援軍の到着

数日後、ガリアの指導者コンミウスに率いられた第二のガリア軍が到着した。コンミウスはローマ軍の防御線から750メートルの地点に布陣する。同時に、同胞の到着を目にした籠城軍も城壁の外へ打って出て、戦闘態勢を整えた。

カエサルもまた軍を分割し、コンミウス軍とウェルキンゲトリクス軍の双方に対峙できる態勢を取った。そのうえで騎兵に防御圏外へ出て、コンミウスの騎兵を攻撃するよう命じた。マルクス・アントニウス率いるローマ騎兵は、はるかに多数の敵と交戦し、一時はその猛攻に耐え抜いた。

戦線が屈し始めたとき、カエサルはそれまで予備として温存していたゲルマン出身の同盟騎兵を投入した。ゲルマン騎兵は雄叫びとともに突撃し、不意を突かれたガリア勢を敗走させたのである。

信じがたい勝利はカエサルのものとなった。コンミウスの軍は後退し、ウェルキンゲトリクスの兵は意気消沈してアレシアの城壁内へ引き返した。しかしコンミウスは翌夜、再び攻勢に出る。ローマ軍の前哨部隊は圧迫され、防御線の内側へ退いた。

壕をめぐる死闘

ここからガリア軍の苦難が始まる。濠地帯に踏み込むや、ガリア軍は角笛の合図で籠城軍に出撃を促した。

コンミウスの部隊は損害を払いながら濠を越え、杭と罠の地帯へと飲み込まれていった。それでも戦死者と重傷者を置き去りにしながら進撃を続け、ローマ軍の主防御線にまで達した。

だが、そこで彼らの望みは打ち砕かれた。カタパルト(投石機)の弾丸が空を切り、ガリア兵の列を次々となぎ倒す。ローマ軍の重い投槍は戦士たちの盾を容易く貫いた。防御柵に近づき梯子をかけようとするたび、大きな石や木材が頭上に降り注いだ。この地獄のような光景に、ガリアの戦士たちは耐えきれず、無秩序に後退していった。

その頃、防御線の反対側では、ウェルキンゲトリクスの部隊が濠と罠の突破に手間取っていた。主防御線の前に到達したときには、コンミウスの軍はすでに退却済みだったのである。

敗北、そして降伏

コンミウスを撃退したローマ軍は、ただちに防御線の反対側へ大挙して移動した。満員の防御線を目にし、コンミウスの敗北を知らされると、ウェルキンゲトリクスは重い心で退却の合図を出すしかなかった。カエサルの先見の明が、またしても勝利を決めたのである。

ガリア軍はローマ軍のある砦に対して再び猛攻を仕掛けた。しかし、カエサル自身が一介の兵士として戦闘に加わった壮絶な戦いの末、またしても甚大な損害とともに撃退される。ウェルキンゲトリクスには選択の余地がなく、退却を命じた。だがカエサルは、ガリア軍を無傷で逃すつもりはなかった。

敵がよろめきながら退き始めたのを見るや、カエサルは騎兵に側門からの突出と側面攻撃を命じた。ローマ騎兵の側面からの猛襲、正面からの軍団兵の圧迫、そして罠と濠による足止め――挟み撃ちにされたガリア軍は壊滅した。この日だけで、少なくとも4万人のガリア人が斬り殺されたという。

伝説となった勝利

こうしてウェルキンゲトリクスは、真の指導者として歴史的責任を受け止め、降伏を申し入れた。提案が受け入れられると、彼はカエサルの前に進み出て降伏したのである。

アレシアでの勝利は、すでに6年間続いていたガリア戦争の決定的な転換点となった。とはいえ、ガリア全土を完全に平定するまでにはさらに3年を要している。紀元前49年までに、カエサルは誇らしげに「自分こそがガリアの征服者である」と述べることができた。この地はその後、5世紀に至るまでローマの支配下に置かれることになる。