古代の歴史

「幻想戦争」1762年:小国ポルトガルはいかにしてフランス・スペイン連合軍を破ったか

「幻想戦争」1762年:小国ポルトガルはいかにしてフランス・スペイン連合軍を破ったか

七年戦争の勃発当初、ポルトガルは中立を維持していた。しかし、イギリス艦隊がポルトガル領海内で行動したことがフランスとスペインの敵意を招き、1762年、スペイン軍が同国へ侵攻した。

中立国ポルトガルへの侵攻

スペインとフランスは、ポルトガル軍をまったくの準備不足だと見なしていた。もしイギリス陸軍元帥であり、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国の将軍でもあり、さらに小ドイツ諸邦シャウムブルク=リッペ=ビュッケブルク伯ヴィルヘルム(フォン・リッペ)がポルトガルに招聘されていなければ、その評価は完全に的を射ていたかもしれない。

ヴィルヘルムは七年戦争初期の西ドイツ戦線で頭角を現し、特に1759年のミンデンの戦いで際立った活躍を見せた人物である。防御戦術の名手として名高かった彼は、最初のスペイン軍侵攻が始まる直前にポルトガルへ招かれた。

再編前のポルトガル歩兵の実態

当時のポルトガル歩兵は20個連隊で構成されていた。1762年4月20日にはさらに3個連隊が新設され、続いてポルト、シャベス、ブラガンサの各師団から3個連隊が追加された。合計26個連隊、理論上の定員は約40,000人である。同年6月にはスイス人傭兵2個大隊からなる連隊が編成され、歩兵の理論上の総兵力は41,620人に達した。

しかしながら、実際の兵力は帳簿上の数字よりはるかに少なかった。定員を補うため、まったく訓練を受けていない男たちが大量に徴募され、それが部隊の実戦価値に与える悪影響は計り知れなかった。1762年8月の時点で、フォン・リッペが戦闘可能な状態に仕上げられたのは、わずか18個大隊と4個騎兵連隊、総兵力5,582人にすぎなかったのである。

イギリス式組織への抜本的改編

こうした窮状の中、フォン・リッペはイギリスの組織モデルを採用し、単一大隊制の連隊を創設した。改編以前、各連隊は2個大隊を有し、各大隊は55人編成の14個中隊で構成され、連隊の理論上の定員は1,540人だった。これに小規模な参謀部が付属していた。スイス連隊の定員は1,600人である。

だが現実には、1762年8月にフォン・リッペがかき集めた18個大隊は、それぞれわずか250人程度の兵力しかなかった。各マスケット銃中隊は大尉が指揮を執り、中尉1名、少尉1名、軍曹2名、伍長4名、鼓手2名、兵卒44名を擁した。大隊の擲弾兵中隊もほぼ同じ編成だったが、そこには笛吹き奏者が1名加わっていた。

青い軍服とプロイセン式訓練の導入

兵士たちは青色の軍服と黒い三角帽を身につけ、マスケット銃、銃剣、そして片刃の短剣を装備していた。足元は黒い長靴と黒い靴である。薬莢入れは左肩から下げた白色革製の吊り帯に収められ、剣と銃剣は腰から垂らした白色革ベルトに吊るされた。各連隊は、袖口と襟に固有の色を配することで識別されていた。

歩兵はもともとフランス=スペイン式の戦闘教義に基づいて訓練されていたが、フォン・リッペの手によってこれは一変し、プロイセン=イギリス式の訓練体系が導入されることになった。

第一次侵攻:ゲリラ戦による消耗

スペイン軍は、まず単独で、後にフランス軍と共同で、1762年4月から12月にかけて3度にわたりポルトガルへ侵攻した。

第一次侵攻では、サリア侯爵率いる22,000人のスペイン軍がポルトガル北東部に侵入した。当初スペイン軍は難なく進軍し、包囲戦の末にミランダ要塞を攻略すると、多くの都市を戦わずに通過しながらポルトへ向かった。

ところがスペイン軍はまもなく、住民と急遽派遣された少数の部隊による予想外の抵抗に直面する。正面から敵に立ち向かえないポルトガル側は、敵の補給線を断ち切って徹底的に消耗させた。少なくとも8,000人のスペイン兵が命を落とし、生き残った者たちは潰走したのである。

第二次侵攻:タホ川の防衛線

一方、7,000人のイギリス遠征軍がポルトガルに到着した。この兵力と8,000人の精鋭ポルトガル兵を率いたフォン・リッペは、アランダ伯爵率いる30,000人のスペイン軍と、ボーヴォー公率いる12,000人のフランス軍との対決に臨むことになった。ブルボン両国の連合軍は、兵力を結集してポルトガル中部への新たな侵攻を開始したのである。

再びブルボン軍は華々しく戦役を開始したが、まもなくタホ川(テージョ川)沿いに敷かれたフォン・リッペの防衛線の前で足止めを食らった。スペイン・フランス両軍が攻勢に転じると、フォン・リッペは焦土作戦を展開しながらより強固な陣地へ後退し、同時にゲリラ部隊を放って敵の補給線を切断していった。そのさなか、「20,000人のイギリス軍が上陸し、ブルボン軍へ向けて進軍中である」という噂が広まった。

スペイン・フランス両軍はこの新たな脅威とおぼしき存在に向き直った。その隙を逃さず、フォン・リッペは防御陣地を離れて敵の背後から反転攻勢をかけ、連合軍を打ち砕いたのだ。ブルボン軍の損害は凄惨を極め、捕虜だけでも12,000人を超えた。

第三次侵攻とフォン・リッペの遺産

第三次となる、より小規模な侵攻もまた同じ運命を辿った。フォン・リッペは1777年に亡くなるまでほぼポルトガルに留まり、ポルトガル軍を根底から再編し続けたのである。小国ポルトガルが大国二国の連合軍を退けたこの戦役は、後に「幻想戦争」と呼ばれることになった。

「幻想戦争」1762年:小国ポルトガルはいかにしてフランス・スペイン連合軍を破ったか