古代の歴史

リヴィウの戦い(1675年):少数のポーランド騎兵がオスマン軍に与えた圧倒的な屈辱

リヴィウの戦い(1675年):少数のポーランド騎兵がオスマン軍に与えた圧倒的な屈辱

1675年夏、ポーランドとオスマン帝国が再び激突

1675年の夏、ポーランド・リトアニア共和国とオスマン帝国は再び戦火を交えることとなった。イブラヒム・パシャ率いるトルコ軍はポドリア(現在のウクライナ西部)に侵攻し、要衝リヴィウ(リヴォフ)へと進軍していたのである。

かつてホチム(ホティン)で敗北を喫したトルコ軍は、雪辱を果たすべく新たな遠征を企てた。その兵力は約2万。一方、これを迎え撃つポーランド王ヤン3世ソビエスキが率いていたのは、わずかに騎兵2,000と歩兵4,000という寡兵であった。

巧みな防御配置

数的に大きく劣勢だったポーランド軍は、周辺一帯に防御的に展開された。ソビエスキはまず、市の東側からの接近路を押さえる丘の上に、歩兵180名・軽騎兵200名・若干の砲兵からなる小部隊を配置した。

有名な翼飾り軽騎兵(フサリア)からなるポーランド重騎兵は街道沿いに展開し、さらに別の200名のフサリアが左翼に布陣、ズボイスカ村を支点とした。残りの部隊も市近郊の各所に分散配置され、あらゆる接近路を封じる態勢が敷かれた。

さらにソビエスキは、数的劣勢を補う奇策を講じた。地域の農民たちに槍を持たせて近くの丘に配置したのである。遠目には彼らが一個の戦闘部隊に見えるよう、巧妙な欺瞞工作だった。

戦闘の開始

トルコ軍は、まさにソビエスキが予期した通りの街道からリヴィウへ進んできた。周囲の丘や森にポーランド軍の伏兵が潜んでいることを恐れたイブラヒムは、強力な騎兵支隊を前衛として差し向けた。

この支隊は、丘の上に待ち構えていたポーランドの混成部隊と正面から衝突した。わずかなポーランド歩兵は砲兵の支援を受けてトルコ軍を撃退し、続いてポーランド軽騎兵が反撃に転じ、トルコ軍を敗走させたのである。

決定的打撃となったフサリアの突撃

トルコ軍の進撃方向を正確に把握したソビエスキは、直ちに全軍へ急行を命じた。麾下の1,700名のフサリアと300名のリトアニア軽騎兵は、いまだ行軍隊形のままだったトルコ軍本隊の側面へと素早く機動した。先の敗走した騎兵支隊がもたらしたパニックは、すでにトルコ軍全体へ広がっていたのだ。

フサリアは長槍を構えて堂々たる突撃を敢行。パニックに陥ったトルコ軍を蹴散らし、無秩序な敗走へと追い込んだ。機動する余裕すら失ったトルコ軍は完全に四散した。ポーランド軍は日没まで執拗な追撃を続け、容赦なく敵を討ち取った。トルコ軍は壊滅し、対するポーランド軍の損害はごく軽微であった。

戦いのその後

この惨敗によりトルコ軍の攻勢は挫折した。その後、トレンボヴラ(トレボヴリャ)の包囲にも失敗したトルコ軍は、1676年にジュラヴヌ(ズラヴノ)で再びソビエスキに決定的な敗北を喫し、両国間には同名の「ジュラヴヌ条約」が締結されることとなった。寡兵をもって大軍を破ったこの戦いは、ソビエスキの軍事的才能を示す好例として、今日でも語り継がれている。