古代の歴史

オークのバケツをめぐる戦争――一見無意味に見えた中世イタリアの紛争

オークのバケツをめぐる戦争――一見無意味に見えた中世イタリアの紛争

14世紀のイタリアは、およそ2世紀にわたって二つの勢力に分裂していた。一方は神聖ローマ帝国を支持する皇帝派(ギベリン)、もう一方はローマ教皇を支持する教皇派(グエルフ)である。

モデナとボローニャ、対立の背景

都市モデナは皇帝派の陣営に属し、ボローニャは教皇派の側についた。両者の対立の発端は、1176年に皇帝フリードリヒ・バルバロッサ(赤髭王)が教皇アレクサンデル3世と衝突した時期にまで遡るとされる。

両都市は長年にわたり衝突を繰り返してきた。1296年には、当時の教皇ボニファティウス8世の後押しを受けたボローニャが、モデナ領の小さな町バッツァーノとサヴィニョを征服している。

教皇の「免罪」が煽った対立

それ以来、両都市はほぼ恒常的な交戦状態に置かれることになった。アヴィニョンの教皇ヨハネス22世は、モデナの僭主パッセリーノ・ボナコルシに敵対する者たちに対し、現世と来世における罪の赦しを与えると約束し、あらゆる手段で彼を害すよう信徒たちに呼びかけたという。

1325年7月、ボローニャの兵士たちはこの「聖なる」命令を実行に移し、モデナ領内に侵入して目につくものを次々と略奪した。8月にも同様の侵攻が行われた。そして9月、今度はモデナが報復に打って出たのである。

奪われたオークのバケツ

モデナの兵士たちはボローニャの市街中心部への侵入に成功し、そこの井戸からオーク材のバケツをひとつ持ち去った。バケツを奪われることは大きな侮辱とみなされ、ボローニャ市民はその返還を強く要求した。

しかしモデナがこれを拒否すると、ボローニャは32,000人の大軍(騎兵2,000、歩兵30,000。大半は農具で武装した市民や農民)を編成し、ライバル都市へ進軍した。一方、モデナの僭主は騎兵2,000と歩兵5,000、合計7,000の兵力でこれに立ち向かった。

ザッポリーノの戦い

両軍は1325年11月15日、ザッポリーノ付近で激突した。数で大きく劣勢だったモデナ軍だったが、烏合の衆である相手の大群を容易く敗走させた。両軍の損害は合計で死者約2,000人に上った。

勝利したモデナ軍は敗者をボローニャの城壁下まで追撃し、さらにもうひとつのバケツを戦利品として奪取した。さらに敵の城6つを破壊し、ボローニャの貴族26人を捕虜としたのである。

講和と「問題のバケツ」の行方

1326年1月、講和条約が締結され、ボローニャは1296年以降に征服したすべての領土をモデナへ返還することとなった。そしてあの「問題のバケツ」は、今日もなおモデナに保管されている。

なお、ギベリン(皇帝派)とグエルフ(教皇派)の抗争は、16世紀前半のイタリア戦争の時期まで続くことになる。

オークのバケツをめぐる戦争――一見無意味に見えた中世イタリアの紛争

物議を醸した……あのバケツ。