古代の歴史

知られざる1977年エジプト・リビア戦争──サダト対カダフィの四日間の激突(映像)

知られざる1977年エジプト・リビア戦争──サダト対カダフィの四日間の激突(映像)

1977年7月、北アフリカで短期間ながら激烈な戦火が交わされました。エジプト・リビア戦争――アラブ史において比較的知られていない章の一つであり、1973年のヨム・キプル戦争でエジプトが大敗を喫した後、指導者アンワル・サダトがイスラエルへ向けて取った姿勢と深く関わる出来事です。

「アラブの権利」の最も過激な擁護者として振る舞っていたカダフィ大佐は、エジプト・シリア・リビアからなる「アラブ共和国連邦」の崩壊後、サダト政権の打倒を掲げ、エジプト体制に対する陰湿な攻撃を開始しました。カダフィが公言していた最終目標はイスラエルの抹殺でした。ところが1973年以降、彼はサダトを「イスラエルと対決する勇気のない臆病者」と非難し始めたのです。

やがてサダトは、カダフィが地中海でイスラエル人観光客を乗せたクルーズ船を沈める計画を画策していたことを暴露します。この衝撃的な告発を機に、両者の関係は完全に決裂しました。ソ連の後押しで大幅に軍事的に強化されたカダフィは、後にエルドアン氏が採ったのと同じ手法で、エジプト国内のムスリム同胞団を支援・強化していきました。サダトはこれに対抗し、リビア内外の反カダフィ勢力を援助。さらには、リビアとの戦いに専念できるよう、米国に対して「イスラエルがエジプトを攻撃しないよう説得してほしい」と要請するほどでした。

衝突への道

1976年初頭、カダフィはエジプトとの国境沿いに兵力を増強し、総勢約3万人の自動車化歩兵2個師団を送り込みました。国境付近の基地には戦闘機80機が配備されます。同年7月には、ベンガジにあるエジプト領事館を閉鎖しました。一方のサダトは表立った動きこそ見せませんでしたが、着実に国境への戦力集結を進めていました。

1977年5月、ソ連はカダフィに対し「エジプトが攻撃の準備を整えている」と警告を発しました。しかしカダフィはこの警告を軽視し、むしろ油断して国境から部隊を引き抜いてしまうのです。その間に、エジプト空軍はミラージュ5、Su-20、Su-7を国境付近へ前進配置させていました。

7月12日・16日・19日には、国境線上で流血の衝突が発生し、激しい銃撃戦が交わされました。カイロ当局はエジプト兵9名の死亡を認めています。同じ頃、カダフィはサダトの対イスラエル政策に抗議するためカイロへ向けて行進する「アラブの熱狂的信者たち」によるデモ行進を組織しました。しかしエジプト側はこの「自発的抗議者たち」を国境で足止めします。これを受け、カダフィはついに侵攻を命じたのです。

開戦

エジプト軍は、コマンドー大隊で増強された2個師団を国境に展開させ、さらに1個師団を予備として介入態勢に置いていました。総兵力は約4万人。一方、余裕綽々と構えていたカダフィの国境配備は、わずか3個旅団・総勢5,000人にとどまっていました。

当時のリビア軍の陸軍・空軍は、どの尺度で見ても危機的な状態でした。多くの戦車や航空機の整備には文字通り途方もない時間がかかる有様です。空軍はミラージュとMiG-23を合わせて100機以上の戦闘機を保有していたものの、パイロットの総数は150人未満で、その多くは「名ばかりのパイロット」でした。それにもかかわらず、エジプトへの攻撃を命じたのは他ならぬカダフィ自身。狂気の賭けと言わざるを得ない判断でした。

7月21日、リビア第9戦車部隊は国境を越え、エジプト領内へ侵攻します。しかしエジプト軍は十分に備えていました。即座に反撃に転じたエジプト軍はリビア軍を敗走させ、人的・物的損失50%超という壊滅的な打撃を与えたのです。リビア空軍は直ちに出撃し、国境の町サッルームを爆撃しましたが、戦果はごく僅少。エジプト空軍はリビア機2機を撃墜しています。

エジプト空軍はミラージュ4機、MiG-21 4機、Su-7 8機をもって敵の航空基地2か所を破壊し、地上でリビア機7機を撃破したと主張しました。エジプト側の損失はSu-7の1機撃墜のみ。さらにレーダーサイトへの精密攻撃にも成功しています。同時に、エジプトの自動車化歩兵2個師団がリビア領内へ逆侵攻し、24キロの深さまで進撃して防衛部隊を蹴散らしました。

リビア軍はさらに装甲車両60両を喪失します。翌日、リビア空軍は再び戦場上空に現れましたが、目立った戦果なく2機を失いました。エジプト側も報復攻撃を行いましたが、こちらも決定的な戦果はありませんでした。その間、リビアの一般市民数千人が恐怖におののき、家を捨てて西方へ逃れていきました。とはいえ、エジプト軍が民間人を標的にすることはありませんでした。

並行して、エジプトのコマンドー部隊は縦深への奇襲作戦を大成功させ、敵の野営地やレーダーサイトを次々と無力化していきます。7月23日、カダフィ空軍は三たび出撃を試みましたが、今度は4機を失い、重大な戦果を得られませんでした。エジプト軍はコマンドーによる新たな奇襲でこれに答え、リビアの軍事インフラに甚大な破壊をもたらしたのです。

結末とその後

この戦争でリビア軍が失ったのは、戦車30両以上、その他の装甲車両40両以上、兵員400人超、そして航空機10機以上(資料によっては20機とも)に上りました。一方のエジプト側の損失は、航空機4機と兵員100人にとどまります。

カダフィにとって屈辱的な結果に終わったこの戦争の後、PLO議長ヤーセル・アラファートの仲介により停戦が成立しました。8月24日には捕虜交換が実施されています。同じ頃、エジプトとイスラエルは正式な和平協定に調印し、シナイ半島はエジプトへ返還されました。

しかし、エジプトとリビアの緊張関係はその後も続きました。そして一部の分析家たちは、1981年のサダト暗殺事件にカダフィが関与していたと主張しているのです。

知られざる1977年エジプト・リビア戦争──サダト対カダフィの四日間の激突(映像)