世界史上屈指の精鋭歩兵連隊として名高いのが、プロイセン第6擲弾兵連隊です。1675年に創設され、当初は2個大隊編成だったこの連隊は、やがて君主の親衛連隊となり、特に七年戦争において輝かしい戦功を重ねました。その歴史は創設から今日まで、実に345年以上に及びます。
創設と初期の戦歴――北欧からハンガリーへ
1675年に創設された第6連隊は、まもなく君主の親衛連隊の地位を与えられました。1677年にはポメラニアでスウェーデン軍と交戦し、1686年には神聖同盟軍の一員としてハンガリーに遠征、オスマン帝国(トルコ)軍相手に卓越した戦いぶりを見せています。
大同盟戦争とスペイン継承戦争
続く大同盟戦争ではフランス軍と対峙し、カイザースヴェルト、ボン、ラウトシェ、ステーンケルケ、ナミュール、ヘント、ウーデナルドといった一連の会戦・包囲戦に参加しました。さらにスペイン継承戦争では、名将プリンツ・オイゲン率いる同盟軍に加わり、有名なブレンハイムの戦いにも参戦しています。
1710年には、いわゆる「赤色連隊(レッド・オーダー)」と呼ばれる部隊が編成されました。その指揮を執ったのは王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム、すなわち後の「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世です。この大隊は模範部隊とされ、その戦術をもとにプロイセン歩兵全体が訓練されることになり、第6連隊に編入されました。
フリードリヒ大王の時代――近衛旅団の中核として
1740年、後のフリードリヒ大王が即位すると、連隊から2個大隊が抽出され、他部隊との統合が行われました。うち1個は名門第15近衛連隊に組み込まれています。第6連隊は単一大隊となりましたが、連隊の称号は保持し、擲弾兵部隊として再編されました。
以後、第6大隊は王立近衛第15連隊の3個大隊とともに近衛旅団を編成します。1745年、オーストリア継承戦争(第二次シュレージエン戦争)のホーエンフリートベルクの戦いでは見事な働きを見せ、184名の損害を出しながらも勝利に貢献しました。同年のゾーアの戦いでは、近衛旅団が敵中央を突破する戦果を挙げています。
1756年に七年戦争が勃発した時点で、大隊はレッツォフ大佐の指揮下にあり、1760年にはフォン・ザルデン少将が指揮を引き継ぎました。なお、この大隊(連隊)は総勢864名の編制を誇り、プロイセン軍の他の大隊よりも規模で優っていました。
七年戦争――栄光と血に彩られた歳月
七年戦争が始まると、第6連隊は国王フリードリヒ自らが指揮する軍に組み込まれ、ザクセン侵攻に参加しました。1757年5月6日のプラハの血みどろの会戦、同年11月のロスバッハの戦いに続き、12月にはロイテンの戦いに参戦します。
ロイテン――斜線戦術(オブリーク・ファランクス)の極致
ロイテンの戦いは、古代テーバイの名将エパメイノンダスとペロピダスの時代以来、斜線戦術(オブリーク・ファランクス)が最も完璧に運用された戦いとして知られています。当時の記録によれば、第6連隊はロイテン村を巡る戦闘で「勇気の奇跡」と評される活躍を見せ、約27%の損害を負いながらも勝利に貢献しました。
ホッホキルヒとトルガウ――大きな代償を払った戦い
1758年10月14日のホッホキルヒの戦いは、フリードリヒ軍にとって壊滅的な結果に終わりましたが、第6連隊はここでも英雄的に戦い、兵力の半ば近くを失いました。1760年のリーグニッツの戦いでも目覚ましい活躍を見せ、同年11月3日のトルガウの戦いでは、勝利こそ収めたものの約48%という甚大な損害を被っています。
そして1762年7月20日、要塞への突撃によって勝利を収めた戦いをもって、第6連隊の七年戦争における戦歴に幕が下ろされました。
近代への系譜――ナポレオン戦争から現代のベルリンへ
第6擲弾兵連隊の伝統はその後も受け継がれました。番号を変えながらナポレオン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦い抜き、現在ベルリンに駐屯する親衛大隊(ヴァッハバタイヨン)は、その起源を第6擲弾兵連隊にたどることができるのです。