チューダー朝時代の「エイブラハム男」とは?
チューダー朝時代(1485年〜1603年)のイングランドには、「エイブラハム男(Abraham man)」と呼ばれる独特な浮浪者の集団が存在していました。彼らは精神疾患を患っているふりをして物乞いをする職業的な詐欺師であり、当時のイングランドが抱えていた貧困問題の影の側面を今に伝える存在です。
その手口——狂気を演じるプロフェッショナルたち
エイブラハム男の最大の特徴は、ロンドンの精神病院として悪名高かったベドラム(ベスレム王立病院)から退院させられた元患者だと自称することでした。ぼさぼさの髪、汚れた身なり、支離滅裂な言葉や奇抜な振る舞いによって「狂人」を演じ切り、街ゆく人々の同情と恐怖を煽っては施しをせびりました。
彼らの演技は非常に巧みで、人の多い場所では静かに振る舞い、人気のない場所に来ると突然叫び声を上げて暴れ出すなど、状況に応じて使い分けていたと記録されています。中には物乞いのかたわら窃盗や情報収集を行う者もおり、一般市民にとっては無視できない脅威でした。
トマス・ハーマンが残した貴重な記録
エイブラハム男の実態を後世に伝えたのは、1566年に出版されたトマス・ハーマンの『ごろつきどもへの警告(Caveat or Warning for Common Cursitors)』です。ハーマンはこの書物の中で、当時イングランド各地で暗躍した浮浪者や物乞いを細かく分類し、それぞれの手口や隠語まで詳しく記録しました。エイブラハム男はその中でも最もよく知られた類型の一つです。
背景にあったチューダー朝の社会問題
エイブラハム男たちが横行した背景には、チューダー朝期の深刻な構造問題がありました。とりわけ「囲い込み運動(エンクロージャー)」は、羊毛産業の利益を求めて農地や共有地を柵で囲い牧羊地へと変えていく動きであり、多くの農民を土地から追い立て、生活の糧を奪いました。
さらにヘンリー8世の宗教改革による修道院解散(1536年〜)は、貧者救済の重要な担い手だった修道院の機能を失わせ、浮浪者を一気に増加させました。翌年には北部イングランドでロバート・アスクに率いられた大規模な民衆反乱「巡礼の恵み(Pilgrimage of Grace)」が起こり、経済的苦境と政府政策への不満が爆発することとなります。
政府は相次ぐ浮浪者取締法で対応しましたが、1536年の法令では働けるのに働かない浮浪者に鞭打ち刑を課すなど、その取り締まりは苛烈を極めました。しかし、本当に困窮した人々と、エイブラハム男のような偽装者を見分けることは容易ではなく、偽装者の存在は真に救済を必要とする貧民への支援をいっそう難しくしました。
おわりに——歴史が映す貧困の姿
エイブラハム男は単なる詐欺師として断罪されるだけでなく、社会的激変の中で生き延びようとした人々の必死の生存戦略の一面も垣間見せます。彼らに関する記録は、貧困と浮浪が大きな社会問題となったチューダー朝イングランドの実像を知るうえで、今なお貴重な史料となっています。