古代の歴史

王家の谷の背後にそびえる聖峰エル・クルン――ファラオたちはなぜピラミッドを捨てたのか

第18王朝から第20王朝のファラオたちは、なぜ先代たちのようにピラミッドではなく、地下墳墓(ヒポゲウム)に埋葬されることを選んだのでしょうか。しかも、なぜ今日「王家の谷」と呼ばれるあの土地だったのでしょうか。

天然のピラミッド、エル・クルン

この謎について、一部のエジプト学者は興味深い仮説を提唱しています。その鍵となるのが、天然のピラミッドのような姿をした聖なる山――エル・クルン(アラビア語で「角」の意。エジプト語では「タ・デヘント」、すなわち「峰」)の存在です。標高約420メートルのこの山は、ナイル川西岸、古代テーベ(現在のルクソール)の正面に連なる山脈の中にそびえ立っています。

ピラミッドを思わせる輪郭は、王家の谷の入り口から眺めたときに最もはっきりと認められます。また、山頂付近には山腹から数メートル突き出した板状の岩盤があり、角度によってはコブラの頭のように見えます。おそらくこのため、この一帯は女神ハトホルの信仰や、コブラの女神メルェトセゲルと結びつけられたのです。

王家の谷の背後にそびえる聖峰エル・クルン――ファラオたちはなぜピラミッドを捨てたのか

王家の谷造営の決め手となった聖峰

エル・クルンは絶好の立地にあります。北に王家の谷、南に王妃の谷、西に貴族の谷、そして東にはデイル・エル・バハリ神殿群が広がります。このピラミッド状の姿こそが、第18王朝第3代ファラオ、トトメス1世(在位:紀元前1504年頃~同1492年頃)に、この山のふもと一帯をテーベ王墓所(ネクロポリス)の建設地として選ばせた可能性があります。彼自身がここに葬られ、多くの後継者たちもこれに続いたのです。

実際、『アムドゥアットの書』の場面で装飾されたトトメス1世の墓では、ピラミッドの下に描かれた神ソカルの楕円形の洞窟が、エル・クルンの峰の真下に楕円形の墓室が位置する、この墓の実際の構造を象徴的に表していると考えられます。

謎多きトトメス1世の墓

興味深いことに、トトメス1世の墓はKV38と同定され、彼の名が刻まれた黄色い石英岩の石棺もそこで発見されています。しかし、遺体は後にトトメス3世によって、ハトシェプスト(トトメス1世の娘)の墓KV20へ移されたとみられています。実はKV20にも、トトメス1世の名を刻んだ別の石棺が収められていたのです。

王家の谷の背後にそびえる聖峰エル・クルン――ファラオたちはなぜピラミッドを捨てたのか

太陽神ラーの象徴としての峰

エジプト学者のケント・R・ウィークスは、「エル・クルンのピラミッド状の形態は、エジプト人に太陽神ラーの象徴を想起させ、支配者の墓地をこの谷に設ける動機となったのではないか」と述べています。つまりこの峰は、何世紀にもわたり王墓の宗教的な役割において中心的な意味を持ってきた太陽象徴を体現する、ひとつの「集合的な天然ピラミッド」として解釈されていたというわけです。

この解釈を裏付ける事実もあります。王の墓が谷の北側に、王妃の墓が南側に配置されているのは、まさにピラミッド群の場合と同じ配列だからです。さらに後世のファラオたちも、類似した象徴的な地形を利用しました。例えばアクエンアテンは、古代のヒエログリフで「地平線(アケト)」を表す記号に似た岩層の上に、自らのネクロポリスを伴う新都を建設しています。

王家の谷の背後にそびえる聖峰エル・クルン――ファラオたちはなぜピラミッドを捨てたのか

懐疑的な見方も存在する

一方で、ジョン・コールマン・ダーネルやコリーン・マナッサ・ダーネルといった研究者たちは、エル・クルンを天然のピラミッドとみなす見方について、「それは現代人による比較にすぎず、裏付ける古代の証拠は存在しない」という懐疑的な見解を示しています。聖峰の解釈をめぐっては、今なお議論が続いているのです。

登山ルートとアクセス情報

エル・クルンには二方向から徒歩で登ることができます。出発点は王家の谷か、デイル・エル・メディーナの近くです。頂上までの所要時間は約1時間半。通常はデイル・エル・メディーナ側のルートが好まれます。道程の4分の3はコンクリート製の階段が整備されていますが、最後の登攀はやや難しくなります。この道は、かつて王家の谷に墓を築いた職人たちが毎日通った道でもありました。ただし、現在は立ち入りが制限されているようなので、訪問予定の方は最新の現地情報を確認することをおすすめします。