ペルシア(現在のイラン)からギリシャのアテネまで、直接つながる街道や陸路は存在しません。ペルシアはアジアに位置し、アテネはヨーロッパに位置しているため、両者は海によって隔てられています。そのため、ペルシア軍がアテネを目指すには、海と陸を組み合わせた長大な遠征ルートをたどるしかありませんでした。
第一段階:ヘレスポントス海峡の渡河
まず、ペルシア軍は小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパ側へ渡るために、ヘレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)を越える必要がありました。この海峡はエーゲ海とマルマラ海を結ぶ狭い水路であり、ここを渡って初めてヨーロッパへの足がかりを得ることができます。
紀元前480年のクセルクセス1世による遠征では、この海峡に舟橋(船をつないで造った橋)が架けられ、数十万とも言われる大軍が一斉に渡河したと伝えられています。
第二段階:トラキアとマケドニアを経由する陸路
海峡を渡った後、ペルシア軍はトラキア(現在のバルカン半島東部)を通過し、さらにマケドニア王国の領域を経由して南下しました。当時のマケドニアはギリシャ本土の北に位置し、ペルシアに対して服従あるいは中立の立場を取っていたため、大軍の通行が可能だったのです。
道中で待ち受けていた困難
このルートは非常に長く、困難を極めるものでした。主な障害は以下の通りです。
- 山脈の横断: バルカン半島にはロドピ山脈など複数の大きな山脈が走っており、大軍の移動には膨大な時間と労力を要しました。
- 補給の問題: 数十万人規模の軍勢を維持するには大量の食料が必要で、随伴する艦隊による海上補給が不可欠でした。
- ギリシャ都市国家の抵抗: 進軍路上には独立心の強いギリシャのポリス(都市国家)が点在しており、侵攻に対して激しく抵抗することが予想されました。
実際の歴史:クセルクセスのギリシャ遠征
実際に紀元前480年、ペルシア王クセルクセス1世はこのルートをたどってギリシャへ侵攻しました。トラキアとマケドニアを通過したペルシア軍は、テッサリア平野を抜け、アテネの手前にあるテルモピュライ(温泉関)で、スパルタ王レオニダス率いる少数精鋭のギリシャ軍と激突します。これが有名な「テルモピュライの戦い」です。
その後、ペルシア軍はアッティカ地方へ進み、アテネ市を占領・略奪しました。しかし、サラミスの海戦でギリシャ連合艦隊に敗れ、翌年にはプラタイアの戦いでも決定的な敗北を喫し、ついにギリシャからの撤退を余儀なくされたのです。
まとめ
ペルシアからアテネへの侵攻ルートは、「ヘレスポントス海峡の渡河 → トラキア → マケドニア → テッサリア → アッティカ」という、海と陸を組み合わせた壮大な遠征路でした。地理的な障壁、補給の難しさ、そして現地のギリシャ諸国の抵抗など、数多くの困難が待ち受ける過酷な道のりだったと言えるでしょう。