古代の歴史

カエサル暗殺後、クレオパトラはどうなった?最後の女王の栄光と悲劇的な最期

カエサル暗殺の知らせと、ローマからの脱出

紀元前44年3月15日、ユリウス・カエサルが元老院議員たちによって暗殺されたとき、クレオパトラはローマに滞在していました。彼女はテヴェレ川対岸にあるカエサル所有の邸宅に身を置き、二人の間に生まれた息子カエサリオン(プトレマイオス15世)とともに暮らしていました。

しかしカエサルの死により、ローマにおける後ろ盾を失ったクレオパトラは、間もなく幼い息子を連れてエジプトへと帰国します。カエサルの遺言書に自分たちの名前が記されていなかったこともあり、ローマに留まる理由はもはやなかったのです。

エジプト唯一の支配者として

エジプトに戻ったクレオパトラは、名目上は幼いカエサリオンとの共同統治の形を取りながらも、実質的にエジプト唯一の支配者として君臨しました。

彼女は自らの権力基盤を固め、息子カエサリオンの王位継承権を守るために一連の政治工作を展開します。その中核となったのが、カエサルの腹心にして有力な後継候補の一人だったマルクス・アントニウスとの同盟でした。

アントニウスとの同盟と野望

紀元前41年、タルソスでの謁見をきっかけに結ばれたクレオパトラとアントニウスは、やがて男女の関係となります。二人の間には双子が生まれ、東地中海を舞台に強大な勢力を築き上げました。紀元前34年には「アレクサンドリアの寄進」を行い、征服した東方の広大な領土を実子たちに分配するなど、その野心はますます露骨になっていきます。

アクティウムの海戦――運命の分岐点

しかしこの関係は、ローマ国内で「東洋の女王に魅入られた将軍」という厳しい批判を招き、オクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)との対立を深めていきました。

そして紀元前31年9月2日、ギリシャ西岸のアクティウム沖で行われた決戦において、アントニウスとクレオパトラの艦隊はオクタウィアヌス軍に壊滅的な打撃を受けます。敗戦後、クレオパトラはエジプトへ逃れましたが、オクタウィアヌスは追撃の手を緩めませんでした。

最期の日々――紀元前30年8月12日

翌紀元前30年、ローマ軍がアレクサンドリアに迫る中、アントニウスは自らの命を絶ちます。降伏すればローマで凱旋式の見せ物にされることを悟ったクレオパトラは、同年8月12日、自ら死を選びました。

死因については、籠に入れた毒蛇(アスピス)を胸に当てたという説が古くから有名ですが、毒薬を用いたとする説など諸説あり、その真相は謎のままです。

プトレマイオス朝の終焉

クレオパトラの死をもって、約300年続いたプトレマイオス朝エジプトの歴史は幕を閉じました。息子カエサリオンもまもなく処刑され、エジプトはローマの属州へと組み込まれ、古代エジプト王国としての独立は完全に失われたのです。

最後のファラオとして二大権力者と渡り合い、祖国の独立を守ろうとしたクレオパトラ。その波乱に満ちた生涯は、2000年以上の時を経た今なお、世界中の人々を魅了し続けています。