西暦9年、現在のドイツ北西部にあたるリーメス(ラテン語で「国境」の意)地域で、トイトブルク森の戦いが勃発しました。ローマの執政官ウァルス(プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス)の同盟者であったゲルマン人の指導者アルミニウスは、ローマに裏切りを宣言。複数のゲルマン部族を自らの指揮下に統一し、ウァルス軍を構成する3個軍団にとって致命的な罠を仕掛けたのです。

航空写真が捉えたローマ軍営の痕跡
この軍営の発見の鍵となったのは航空写真です。空からの画像によって、地面に残る軍営の痕跡がはっきりと識別されました。その後、金属探知機を用いた予備調査が行われ、ローマ軍の装備品に関連する数百点の遺物が出土しています。出土品には、サンダルの鋲、フィブラ(ブローチ)、ピンセットなどが含まれていました。さらに、リヨン(ルグドゥヌム)で鋳造されたアウグストゥス時代の貨幣や、ケルト起源の貨幣も発見されています。

紀元前12年から西暦9年にかけての遺構
出土した遺物から、この軍営の使用時期は紀元前12年から西暦9年の間と推定されています。内部にはおよそ1万5,000人が収容されていたとみられ、これは後にアルミニウスによって壊滅させられた、ウァルスが指揮していた3個軍団の規模に相当します。
専門家たちは、遺跡の調査がまだ予備段階であることから慎重な姿勢を崩していません。しかし、初期の調査結果は、このリーメス地域が従来考えられていた以上に戦略的に重要であったことを示唆しています。

ドイツにとって重要な意味を持つ新遺跡
この新たな考古学遺跡の出現は、ドイツにとって非常に重要です。19世紀、アルミニウスはローマ帝国への反乱によってドイツ人に理想化され、国民的英雄として崇拝されるようになりました。しかし、アルミニウスの実像を伝える史料は極めて少なく、墓碑銘と、タキトゥスの『年代記』の中で彼を「ゲルマニアの解放者」と記述した一節の2つしか残っていません。そのため、史実と伝説の境界は曖昧なままだったのです。さらに1529年以降、宗教改革の進展とともに、アルミニウスはローマ教会からの独立の象徴として再解釈されることになりました。
ローマ軍の進出範囲を覆す新説
この遺跡がもたらすもう一つの重要な貢献は、ローマ軍の進出範囲に関するものです。従来の通説に反して、軍営の位置は2つの可能性を提示しています。ひとつは、ティベリウス(後の皇帝ティベリウス)が従来考えられていたよりも北へ進軍していたという説。もうひとつは、ウァルス自身がハノーファー周辺にまで達し、そこで最期を迎えたという説です。
常に移動を続けるリーメスは、異邦人(バルバロイ)の居住地域と接していたため、絶えず紛争にさらされる地帯でした。そしてウァルスの敗北は、ローマ帝国によるゲルマニアへの拡張の終焉を意味しました。『Desperta Ferro Antigua y Medieval』第11号「トラヤヌスからマルクス・アウレリウスへ」では、アンヘル・モリージョ・セルダンが、これらの領土をめぐる脆弱な状況について解説しています。
また、ローマ軍の組織と駐屯地の仕組みについては、『Desperta Ferro Antigua y Medieval』第5号「危機に瀕した共和政ローマ」で、ヤン・ル・ボエックの手により紀元前1世紀のローマ軍の実態が紹介されています(近刊予定)。さらに、近日刊行の『Desperta Ferro Especiales』特別号第VIII「ローマ軍団(II)共和政後期」では、マルティン・ルイクによる、紀元前1世紀のローマ軍営を扱った記事が掲載される予定です。
出典:ABC Cultura、Terra Antiqvae