考古学的発見

生き埋めにされたラマの犠牲から、600年前のインカの儀式が明らかに

南ペルーの遺跡で見つかった、豪華な装飾を施された生贄のラマたち。その驚異的な保存状態から、インカ帝国の祭祀の実態が浮かび上がってきました。

生き埋めにされたラマの犠牲から、600年前のインカの儀式が明らかに

600年前に生贄として捧げられたラマ。ペルーのタンボ・ビエホ遺跡(Tambo Viejo)で、驚くほど良好な保存状態で発見されました。

6世紀もの間、土中に埋もれていたにもかかわらず、その毛並みは今なお残っています。鼻先には赤色顔料(ベンガラ)の線が描かれ、耳には赤・緑・黄・紫など色鮮やかな長い紐が結ばれていたこれらのラマは、インカの儀式において生きたまま埋葬されたとみられます。このような形で発見されたのは、ペルーでは今回が初めてのことです。

生き埋めにされたラマの犠牲から、600年前のインカの儀式が明らかに

考古学者たちが発見した生贄のラマ。出典:Lidio Valdez / Antiquity

インカにとって最も重要な生贄の一つだったラマ

人間とともに、ラマはインカ帝国が採用した最も重要な生贄(いけにえ)でした。学術誌『Antiquity』によると、ペルー南部海岸のアカリ谷に位置するタンボ・ビエホ遺跡から、有機物が驚くほどよく保存された4頭のラマが出土しています。煌びやかな装飾を身につけた白いラマ3頭と茶色のラマ1頭は、600年前に生贄として捧げられたものでした。

研究チームによれば、こうした儀式は、タワンティンスーユ(インカ帝国)が領土拡大を進める過程で、新たに征服した地域の住民との絆を強化する役割を果たしていました。「これらすべての儀式によって、インカはアカリ谷における自らの存在を正当化することができたのです」と、研究の筆頭著者であるカルガリー大学(カナダ)のリディオ・バルデス(Lidio Valdez)氏は述べています。高度に形式化された儀式には、歌や祈り、踊りが伴うこともあったといいます。

16世紀には、スペイン人の征服者たちによる記録が、こうした生贄の場面を詳細に伝えています。雨の恵みを祈って100頭ものラマが捧げられることもあれば、数千頭規模に及ぶ大規模な生贄が行われた例もありました。インカの人々は数多くの神々を信仰し、定期的に供物を捧げていたのです。

「タンボ・ビエホのラマは、墓域ではなく生活空間から見つかりました」と、パリ第1大学(パンテオン・ソルボンヌ)ArchAm研究所(アメリカ大陸考古学、UMR 8096)の考古人類学者リュシー・ドゥス(Lucie Dausse)氏は述べています(同氏は本論文の共著者)。タンボ・ビエホでの生贄は、創造神ウィラコチャ(Viracocha)と太陽神タイタ・インティ(Tayta Inti)に捧げられたものと考えられています。

かつてスペイン人の年代記作者ベルナベ・コボ(Barnabé Cobo、1582〜1657)は、インカ人がラマの毛色の選別に細心の注意を払っていたことを記録しています。動物は捧げる対象となる神に応じて選ばれ、斑点や傷などのない完璧な姿でなければなりませんでした。タンボ・ビエホで生贄となった生後数か月ほどの雄の子ラマたちは、まさしく均一で完璧な毛色を持っていたのです。

生き埋めにされたラマの犠牲から、600年前のインカの儀式が明らかに

埋葬されたラマの上に置かれた鮮やかな色の羽根。出典:Lidio Valdez / Antiquity

人身御供にも匹敵する儀式的実践

『Antiquity』掲載の論文によると、ラマの調査では喉や横隔膜に切断の痕跡――心臓摘出を示唆するような――は一切見つかりませんでした。これは、動物が生きたまま埋葬された可能性を強く示唆しています。脚部に何らかの拘束の痕跡が確認されたことも、この仮説を裏付けています。

こうした儀式的実践は、「カパコチャ(Capacocha)」と呼ばれる儀式で行われた生身の人間、とりわけ子どもへの生贄と比較することができます。

また、ラマと同様にカラフルな装飾を施されたモルモット(ケチュア語で「クイ/cuy」)も、タンボ・ビエホで生贄にされていました。黒豆のひと握りや、熱帯鳥のオレンジ色の羽根が目印として動物の遺骸の上に置かれることもありました。

放射性炭素年代測定の結果、これらの生贄は西暦1432年から1459年の間に行われたことが判明しました。最初のスペイン人がペルーに到来した1532年のおよそ1世紀前にあたります。