考古学的発見

アルジェリアの「キリスト教徒の墓」――アントニウスとクレオパトラの娘が眠る王家の霊廟

アルジェリア北部の港町ティパザ近郊。シェルシェルから首都アルジェへと続く街道沿いの丘には、地元のイスラム教徒たちが「キリスト教徒の墓」と呼ぶ独特な遺跡が佇んでいます。一見するとローマのアウグストゥス霊廟によく似ていますが、それは偶然ではありません。この霊廟を造ったのは、ヌミディアとマウレタニアの王ジュバ2世だったのです。

アルジェリアの「キリスト教徒の墓」――アントニウスとクレオパトラの娘が眠る王家の霊廟

ローマの捕虜から王へ――ジュバ2世の波乱の人生

ジュバの父は北アフリカのベルベル人の王で、紀元前45年にユリウス・カエサルによって打ち破られました。少年ジュバは捕虜としてローマへ連れて行かれ、カエサルの凱旋式に引き出される身となります(この凱旋式には、エジプトのクレオパトラ7世の妹アルシノエも捕虜として参加していました)。その後、彼はローマ式の教育を受けて育ち、やがてローマ市民権を獲得しました。

ジュバはアウグストゥスと親交を深め、紀元前31年のアクティウムの海戦では共に戦います。そして紀元前29年から27年にかけて、アウグストゥスによってヌミディアの王座へ復位しました。ちょうどこの頃、アウグストゥスはローマに自身の霊廟の建設を始めており、ジュバはその設計を目にする機会に恵まれます。これが後年、自らの霊廟に同じ意匠を再現することへとつながりました。

アントニウスとクレオパトラの娘との結婚

紀元前26年から20年の間に、アウグストゥスの仲介により、ジュバはクレオパトラ・セレーネと結婚しました。彼女はマルクス・アントニウスとクレオパトラ7世の娘です(二人とも紀元前30年8月に亡くなっており、婚礼はその4年から10年後のことでした)。

クレオパトラ・セレーネは、双子の兄弟アレクサンドロス・ヘリオス、弟プトレマイオス・フィラデルフォスとともに、両親の死後アウグストゥスによってローマへ連れて行かれました。

アルジェリアの「キリスト教徒の墓」――アントニウスとクレオパトラの娘が眠る王家の霊廟

軍事凱旋式に引き回された後、三人の子供たちはアウグストゥスの姉オクタウィア(アントニウスの正式な未亡人でもあった人物)の邸宅で引き取られ、育てられました。当時、セレーネとヘリオスは10歳、フィラデルフォスはわずか4歳でした。

やがて二人の兄弟がこの世を去ると、アウグストゥスはクレオパトラ・セレーネに手厚い持参金を与え、母と同じく女王の座に就かせました。

アルジェリアの「キリスト教徒の墓」――アントニウスとクレオパトラの娘が眠る王家の霊廟

マウレタニア王国と王家の霊廟の建設

夫妻はヌミディアからマウレタニアへ移ります。ジュバは王国の首都をアウグストゥスに敬意を表して「カエサレア」と改称し(現在のアルジェリア・シェルシェル)、紀元前3年、マウレタニア王立霊廟の建設に着手しました。

霊廟の構造

霊廟は標高約250メートルの丘の上に建てられています。主要な石造部は円形で、基部の上に円錐(ピラミッド状)の頂部が載る姿が特徴です。基部の直径は約60.9メートルにおよび、かつては60本のイオニア式円柱が巡り(柱頭はすでに失われています)、四方には偽扉が設けられていました。

完成当初の高さは約40メートルでしたが、長い歴史の中で受けた損傷により、現在では30メートルほどしか残っていません。これまで幾度となく取り壊しが試みられ、最後となったのは18世紀末、この地方のオスマン帝国総督バーバ・ムハンマド・ベン・ウスマンによるものでした。

内部には小さな通路を挟んで二つの穹窿(きゅうりゅう)墓室があります。扉はてこ仕掛けで上下に動かす構造でした。一方の墓室は長さ43メートル、幅3メートル、高さ3メートルで、もう一方はやや小さくなっています。墓室へは、全長152メートルに及ぶ螺旋状の回廊を抜けて入りました。

アルジェリアの「キリスト教徒の墓」――アントニウスとクレオパトラの娘が眠る王家の霊廟

発掘で判明したこと

ところが、霊廟の内部からは誰の遺体も見つかりませんでした。これは古代末期以降、繰り返し盗掘に遭ったためと考えられます。1865年、皇帝ナポレオン3世の支援による発掘調査で、ベルブリュッガーとマッカーシーが霊廟の入口(朝日を仰ぐ東側の偽扉の基礎の下)を発見したとき、そこにジュバとクレオパトラ・セレーネの遺体はすでになかったのです。

偽扉の奥にはさらに別の扉があり、それが穹窿墓室へ通じていました。その右側にあるのが主回廊への扉で、考古学者たちはその上部にライオンと雌ライオンを象った彫刻を発見しています。主墓室からは、紅玉髄(カーネリアン)のビーズ、エジプト製のペンダント、そして散らばった真珠がいくつか出土しました。

アルジェリアの「キリスト教徒の墓」――アントニウスとクレオパトラの娘が眠る王家の霊廟

学問を愛した王と、王朝の終焉

ジュバは生涯におよそ50冊もの歴史書(多くはギリシャ語で執筆)を著した学者王でもあり、アフリカ各地へ探検隊を派遣しました。その一つがカナリア諸島への遠征で、「カナリア」という名は、彼らが現地で見つけた猛犬にちなんで名付けられたといわれています。彼は再婚も果たした後、西暦23年か24年にこの世を去りました。

その頃、クレオパトラ・セレーネはもちろんすでに他界していました(正確な没年は不明ですが、紀元前5年から紀元11年の間、享年35歳と伝えられています)。ミティレネの詩人クリナゴラスが詠んだエピグラムの一つは、彼女に捧げられたものと考えられています。

もし彼女に捧げられたものであるなら、その死は日没の時刻に月食が起こっている最中に訪れたことを示しています。条件に合致する可能性のある年は、紀元前9年・8年・5年、あるいは西暦7年・10年・11年・14年です。

アルジェリアの「キリスト教徒の墓」――アントニウスとクレオパトラの娘が眠る王家の霊廟

クレオパトラ・セレーネはこの霊廟に葬られ、後年ジュバの遺体も彼女の傍らに安置されました。夫妻には二人の娘(紀元前5年に亡くなったクレオパトラと、ドルシラ)と一人の息子プトレマイオスがいました。プトレマイオスはマウレタニア王として統治しましたが、西暦40年、ローマ訪問の際に又従兄にあたる皇帝カリグラによって殺されてしまいます。おそらく彼もこの王家の霊廟に葬られたのでしょう。こうしてマウレタニアの地で再び結ばれたヌミディアとエジプトの王家の血筋は、彼とともに静かに幕を閉じたのです。