古代ギリシャの古戦場カイロネイア
かつてボイオティア地方の中央に広がっていたコパイス湖(19世紀に干拓された巨大な湖)のほとり、テーバイの北西に位置する都市カイロネイアは、古代から数々の重要な戦いの舞台として名を馳せていました。
なかでも最もよく知られているのが、紀元前338年、マケドニア王フィリッポス2世――アレクサンドロス大王の父――率いる軍勢と、テーバイとアテナイを中心とするギリシャ諸ポリス連合軍との間で繰り広げられた会戦です。この戦いの帰結は、マケドニア支配下に入るギリシャの将来を決定づけました。

神聖隊の最期
この戦いで特に印象深く、後世まで語り継がれてきた出来事の一つが、当時ギリシャ最強と謳われた精鋭部隊「テーバイ神聖隊」の敗北と全滅でした。
神聖隊は、男性同士の恋人150組、計300人で編成された部隊です。創設者は、エパメイノンダスと同時代のテーバイの将軍ゴルギダス。エパメイノンダスの革新的な戦術とスパルタ打倒の偉業については、以前の記事でも取り上げました。

神聖隊では、各組が成人男性(ヘニオコイ/Heniochoi)と若者(パライバタイ/paraibatai)から構成されていました。カイロネイアの戦いこそ、創設以来およそ33年に及ぶ歴史の中で唯一の敗北となったのです。

テーバイに人質として滞在し、ボイオティア人の軍事戦術を熟知していたフィリッポスは、テーバイ・アテナイ連合軍を敗走させました。しかし神聖隊だけは退かず、包囲されながらも一歩も地面を譲らずに戦い抜き、滅んだのです。カイロネイア出身で、生涯を同じ街で終えた歴史家プルタルコスは、積み重なる遺体を目にし、彼らが誰であるかを知ったフィリッポスがこう語ったと伝えています。

「この者たちが何ら恥ずべきことを為した、あるいは恥辱を受けたと考える者は、惨めに滅びるがよい」
プルタルコスによれば、この日、神聖隊300人全員が戦死しました。しかし、現代の発掘調査で調べられたカイロネイアの共同墓から見つかったのは、254体分の骨格のみでした。
共同墓と獅子像の建立
この共同墓については、パウサニアスが著書『ギリシア案内記』の中ですでに言及しています。
実際、敗北後、フィリッポスはテーバイ人たちに戦死者の埋葬を許し、その場所を示すため、およそ20年後の紀元前318年頃、高さ約6メートルの獅子像が建立されました。ただしプルタルコスの時代には、その姿はすでに見えなくなっていたといいます。

1818年、旅行者たちによる偶然の再発見
ところが、考古学史上しばしば起こる幸運な偶然によって、1818年6月3日、建築家ジョージ・レッドウェル・テイラーがエドワード・クレシー、ジョン・サンダース、画家ウィリアム・パーサーとともにカイロネイアへ小旅行に出かけた際、いくつかの破片を発見します。テイラーたちは即座に、それがパウサニアスの記す獅子像の一部ではないかと直感したのです。

ヴィクトリア&アルバート博物館のコレクションには、同行者の一人の日記によるメモが残されており、そこには次のように記されています。
これらの破片はほどなく再び土中に埋め戻されますが、その前にテイラーたちは大英博物館への収蔵を働きかけました。1820年には建築家ウルフら新たな専門家による検討が行われ、記念碑の正確な復元案が提示されました。さらに1879年以降の発掘調査により、獅子像がもともと四角形の囲い地(ペリボロス)の縁に置かれていたこと、そして像の本来の基壇も確認されました。

また、記念碑は長い歳月の中で次第に地中へ沈んでいったものの、テイラーたちが発見した数年後のギリシャ独立戦争の際に粉々に砕かれ、現場に放置されていたことも判明しました。
集団墓地の発見
本格的な調査にはさらに1年を要しました。1880年、考古学者L・フィタリスがより深い発掘を行って人骨の存在を確認し、古物監督官P・スタマタキスが集団墓地全体を自らの手で突き止めたのです。骨は6箱に収められ、アテナイへ運ばれました。254体分の骨格に加え、特定不能な人数分の火葬遺体も見つかっており、興味深いことに、これらは後に改めて埋葬されたものとみられています。
復元と再建立
獅子像の修復にあたって、ギリシャにはドイツやイギリスから資金提供の申し出が数多く寄せられましたが、そのすべてが拒否されました。
こうして1902年、獅子像は発見された元の場所、テーバイ神聖隊の戦死者の墓の上に再建立されました。費用を負担したのは、100年以上にわたり神聖隊の精神を守り伝えてきた団体「カイロネイア友愛会」です。作業を担当したのは彫刻家ラザロ・ソホスで、鋼鉄の骨組みに古代の破片を組み付け、欠損部分を補って復元しました。

完成した像は、現在の街道の南側にある大理石の台座の上に据えられ、近くのマケドニア軍の墳丘墓の方を向き、糸杉の木々に囲まれています。獅子の表情は厳粛で、どこか悲しげでありながら、同時に誇り高い佇まいを見せています。それは、戦死者への哀悼の表現なのでしょう。
テルモピュライの獅子との対比
しかしこの表情には、別の意味も込められていた可能性があります。テルモピュライにはそれ以前に、レオニダス王と300人のスパルタ兵が倒れた場所を示す獅子像がありました。そして紀元前479年、神聖隊の前身にあたるテーバイ人300人が、ペルシア側についてギリシャの自由を守る同盟軍と戦い、命を落としていたのです。その前年、テーバイはテルモピュライでペルシアに降伏していました。
カイロネイアの獅子像は、この二つの出来事を並べることで、ペルシア側についたというテーバイの汚名を拭い去ろうとしたのかもしれません。