疫病が美術に残した刻印
疫病の猛威は、美術にも深い影響を及ぼしてきた。14世紀にヨーロッパを襲ったペスト、いわゆる黒死病は、15世紀に高度に様式化された演目「ダンス・マカブル(死の舞踏)」を誕生させた。フランスで登場したこのテーマは、やがてヨーロッパ絵画において繰り返し描かれるモチーフとなり、疫病を前にした死の平等性を視覚的に訴えかけることになる。

オート=ロワール県ラ・シェーズ=デューの旧サン・ロベール修道院付属教会の壁を飾る「死の舞踏」。
壁を覆う不気味なサラバンド
新型コロナウイルスが、1918年のスペインかぜや1347年のペストの記憶を集団的無意識の中に呼び覚ましたように、中世最悪の疫病はまた、時を超えて受け継がれる幻想的な創作の源ともなった。なかでも最も有名な芸術的表現の一つが、15世紀に宗教建築の壁に現れた奇妙な輪舞(サラバンド)である。
この時代の作品として現存する、ラ・シェーズ=デューの旧サン・ロベール修道院付属教会では、今も壁の一つに、病に倒れた死者の腕をつかむ死神の葬送的図像が残されている。フランスで初めて登場したという痩せた骸骨は、人々のポランス(先の尖った靴)を踏みつけ、遠慮なく人間を押しのけては転ばせ、倒れるのを急き立てる。不気味な踊りに巻き込まれた二十人余りの犠牲者たちには、恐怖に凍りついた紫の法衣をまとった教皇、聖職者たち、肥え太った商人、聖堂参事会員、産着に包まれた幼児、吟遊詩人、女子修道院長、統領(コンスタブル)、農夫などの姿が見て取れる。この陰鬱な振付こそ「ダンス・マカブル」と名付けられたものであり、「黒死病」として西欧を襲ったペストの出現に直接結びついたテーマなのである。

15世紀、ダンス・マカブルの陰鬱なサラバンド。© Josse/Leemage/AFP
1347年、マルセイユに上陸した死
この疫病がフランスに届いたとき、王国はすでに百年戦争(1337~1453年)の傷に苦しみ、疲弊しきっていた。14世紀、ペスト菌(Yersinia pestis)が引き起こす腺ペスト、すなわち黒死病が容赦なく広がったのである。1347年11月1日、ペストはマルセイユに入港した3隻の船の船倉から上陸した。船は黒海沿岸(クリミア)に位置するジェノヴァ商館カッファからやってきた。1348年にはヴェネツィアが襲われ、1年足らずで地中海世界の全域が被害を受けるに至った。ペストは月に30~100キロの速度で進行し、少なくともヨーロッパ人口の3分の1、およそ2500万人が命を落としたと試算されている。
身分を問わず襲う死、教会のメッセージ
誰もが頼るべき聖人を見失うほど、死はあらゆる場所にあった。フランスでは、一つの家族も、一つの都市も、一つの地方も免れ得なかった。死体は埋葬しきれないほど多く、街路や街道脇に放置され、人目につくまま腐敗していった。教会はこの惨禍を、社会的身分、年齢、性別を問わず容赦なく人を打ち倒す、死の不可避かつ平等な性格を説く機会とした。前日まで壮健だった者が、翌日には斃れる。信仰が支配する時代において、それは必然的に神罰とみなされた。この観念こそが「死の舞踏」の原動力となったのである。富者であろうと貧者であろうと、若者であろうと老人であろうと、男であろうと女であろうと、ペストはその進路にあるすべてを破壊した。こうした舞踏は、黙示録や最後の審判をめぐる終末論的な不安を呼び起こし続けた。
文学に先駆けたテーマ
15世紀の絵画にこれらの舞踏が現れたとき、このテーマはすでに文学において詩の形で知られていた。とりわけ「三人の死者と三人の生者」――生者と死者の対話を通じて、逃れられない人間の宿命を想起させる作品――である。そこにはこう記される。「そなたらの今の姿は、かつての我らの姿。我らの今の姿は、いつの日かそなたらの姿となる」。

書物に初めて登場した死の舞踏の一つ。国王シャルル7世(1403~1461年)の聖書を飾る挿絵。© Snark/photos12/AFP
死神の姿はいかに変遷したか
死の表現そのものもまた進化を遂げた。12世紀の寓意において、死は蝙蝠の翼を持つ人物、あるいは黙示録の第四の騎手として描かれていた。13世紀には鎌を携えた刈り手となり、14世紀には疑いようのない死体の姿で表され、1420年以降はトランジ(腐敗した死体像)へと置き換えられていく。ラ・シェーズ=デューの未完成のフレスコ画もその一例である。興味深いのは、これらの美術上の慣習が当時の知識の進歩を追いかけている点だ。解剖学の知識は確かに前進していた。1340年頃からイタリアで行われていた解剖は、教皇クレメンス6世によってフランスでも許可されたのである。
1342年に教皇位に就いた元ラ・シェーズ=デューの修道士クレメンス6世は、1348年のペスト流行時にアヴィニョンに滞在しており、遺体の研究を通じて恐るべき病の起源を解明しようと試みた。肉の復活という信仰の名のもとにそれまでキリスト教が許さなかった解剖を、分析のために認めたのだ。
パリからヨーロッパ全土へ
詩からフレスコへ。最初の死の舞踏は1424年、パリのサン・イノサン墓地の共同墓穴(シャルニエ)の壁に描かれた。その目覚ましい成功は、フランスのみならずヨーロッパ全土で数多くの複製を生み出すことになった。

イタリアの壁を飾る中世の死の舞踏。© Leemage/AFP
1440年にはロンドンの聖パウロ大聖堂の壁が死の舞踏で飾られ、続いてリューベックやドレスデン(ドイツ)、ウィーン(オーストリア)、ルツェルンやバーゼル(スイス)の教会が次々と装飾されていく。しかし18世紀に至ると、恐ろしいジグはついにその狂おしいリズムを使い果たした。ルネサンスと啓蒙時代を経て、ダンス・マカブルとそのしかめっ面の人物たちは、宗教的図像のレパートリーから姿を消していくこととなる。

死が矢の雨として表現されていた時代。© Wikimedia
「黒死病」から「死の舞踏」へ
15世紀以前、ペストのような疫病は美術において「黒死病」、すなわち人間に降り注ぐ矢の雨として表現されていた。一方、「ダンス・マカブル」では、約30人の登場人物が確立された順序に従って配される。教皇、皇帝、枢機卿、王、総主教、統領、大司教、騎士、司教、従者、修道院長、代官、親方、市民、参事会員、商人、カルトゥジオ会修道士、巡査、修道士、高利貸し、医師、恋人、司祭、農夫、法律家、吟遊詩人、托鉢修道士、子ども、聖職者、隠者。そして死そのものが、骸骨またはトランジの姿で描かれるのである。
本記事の原典は『サイエンス・エ・アヴニール』誌726号掲載の記事である。