考古学的発見

ドイツ、2022年からベナン青銅器の返還へ――植民地美術をめぐる歴史的転換点

ドイツは2022年から、アフリカ植民地美術の象徴的存在である「ベナン青銅器」をナイジェリアへ返還することを決めた。「歴史的」と評されるこの決定は、植民地時代にドイツにもたらされた美術品の返還をめぐる大きな議論の最初の成果である。しかし、ベネディクト・サヴォワとゲッツ・アリー両氏の最新の研究によれば、この議論の歴史は実はもっと古く、しかもドイツの博物館当局によって意図的に避けられてきたものだった。植民地美術をどのように展示し続けるべきかという問いが、今まさに突きつけられている。

ドイツ、2022年からベナン青銅器の返還へ――植民地美術をめぐる歴史的転換点
1897年にイギリス軍によって略奪されたベナンの彫刻群。シュトゥットガルトのリンデン博物館で開催された「Where is Africa」展での展示風景。

目次

  1. ベナン青銅器、2022年から返還へ

  2. 1960年代にさかのぼる闘い

  3. ルフ島の船の歴史を書き直す

  4. シュトゥットガルト市が植民地の過去を展示

ベナン青銅器、2022年から返還へ

ドイツ、2022年からベナン青銅器の返還へ――植民地美術をめぐる歴史的転換点

「ドイツの植民地的過去を明らかにし、それと向き合うこと」――これこそ、今ドイツの博物館当局が直面している責務である。文化相モニカ・グリュータース(CDU)は、2021年4月29日にドイツの博物館学芸員グループとナイジェリア側との間で開かれた決定的な会合を、こう結び付けた。交渉はまだ終わりからほど遠いものの、ドイツのコレクションにある植民地美術品の返還プロセスは始動した。その条件は二つ、最大限の透明性と、相当数の物件の返還である。まず最初のスケジュールとして、最も象徴的な作品に焦点が当てられた。6月15日までに、ドイツ国内にあるすべての「ベナン青銅器」のリストを公表しなければならないのだ。
これらの彫刻、レリーフ、青銅・真鍮・象牙で作られた工芸品は、旧ベニン王国の王宮に由来し、1897年にイギリス軍によって略奪されたものである。ドイツは1000点以上を入手していた。ケルンのラウテンシュトラウホースト博物館の学芸長ナネット・スノー氏は、放送局ドイチェ・ヴェレ(DW)の取材に対し、全会一致の決定を歓迎し、「博物館を脱植民地化する真の必要性がある」と語った。さらに彼女はその意味をこう説明する。「返還とは、自らの歴史を書く権利なのです」。この取り戻しは、物質的な意味でも象徴的な意味でも実現される。ナイジェリアの学芸員たちは、母国で展示したい対象、ドイツに残す対象、そしてその展示方法を選ぶことができるのだ。

植民地美術をめぐる議論に火をつけたのは、2020年末のフンボルトフォーラムの開館だった。プロイセン文化財財団(SPK)の「ヨーロッパ外」コレクションを収蔵するはずだったこの博物館は、旧ベルリン城の跡地に建てられ、そのファサードを再現している。ベルリン市の文化担当上院議員クラウス・レーデラーにとって、返還はもはやあらゆる展示の前提条件となっている。展示される物件は今後、ベニンシティの新博物館(2024年開館予定)のコレクションに加わるまでの間、貸与という形をとることになる。

1960年代にさかのぼる闘い

ドイツ、2022年からベナン青銅器の返還へ――植民地美術をめぐる歴史的転換点

実際のところ、植民地美術の返還をめぐる議論は今世紀に始まったものではない。ベルリン在住のフランス人美術史家ベネディクト・サヴォワ氏の最新刊を『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ)』が書評したところによれば、この議論は1960年代にまでさかのぼる。2021年3月にドイツで出版された同書は、アーカイブ資料を通じて、ナイジェリアやザイール(現コンゴ民主共和国)を含む複数のアフリカ諸国が、自国の文化的遺産の取り戻しを求めて戦った闘いを辿っている。

セネガルの月刊誌『ビンゴ』編集長だった作家・ジャーナリストのポラン・ジョアキム氏は、1965年1月、「黒人芸術を返せ(Rendez-nous l'art nègre)」と題する社説を発表し、「黒いアフリカの魂を証明する物的証拠」の返還を求めた。それは大陸に誇りをもたらすためであり、彼自身、西欧の博物館が略奪と植民地美術品の保有を事後的に正当化する際に口にする「破壊から守るため」という保護の名目について、その見下した態度を十分に認識していた。

アフリカ側の要求は、いくつかの理由から挫折することになる。ドイツの博物館当局は、依然として植民地主義的な発想――「政治的あるいは経済的に劣った」国々に対する西欧の文化的後見の正当化(1977年から1998年までSPK総裁を務めたヴェルナー・クノップの言葉)――にとらわれており、民族学・考古学博物館のコレクション全体を危うしかねないこの攻勢に抵抗することとなった。つまり、返還は意図的に妨げられたのであり、これらのコレクションの目録作成が行われなかったことがその証左である。経済危機と政治危機もまた、返還論を唱えていた文化的エリートたちを沈黙させた。返還の言説は、彼らが亡命や暗殺によって姿を消すのとともに消え去ったのである。

FAZは、サヴォワ氏の著作がこの側面を十分に強調していないことを残念がる。しかし、フンボルトフォーラムへの批判を通じて、返還論争を純粋に運動家的な文脈から引き出し、政治的言説の中で受け入れられるようにすることの重要性を示したのは、ほかならぬ彼女自身であった。

* ベネディクト・サヴォワ『Afrikas Kampf um seine Kunst. Geschichte einer postkolonialen Niederlage(アフリカの芸術をめぐる闘い――ポストコロニアルの敗北の歴史)』C.H. Beck、2021年。

ルフ島の船の歴史を書き直す

ドイツ、2022年からベナン青銅器の返還へ――植民地美術をめぐる歴史的転換点

さらにもう一つの投石となったのが、ナチス時代専門の歴史家ゲッツ・アリー氏の最新刊である。同書は、記憶により深く埋もれたドイツ植民地史の「暗い章」、すなわち19世紀末のドイツによるオセアニア進出を明らかにしている。『シュピーゲル』誌のインタビューでアリー氏は、現在のパプアニューギニアにあたるハーミット諸島、とりわけルフ島の住民に対する虐殺と奴隷化の実態を詳述する。島民たちはドイツ商人に真珠母とコプラ(乾燥ヤシ肉)の供給を強制されていたのだ。

皮肉なことに、この島で最後に建造された船(1890~1895年)は1903年にドイツへ持ち帰られ、フンボルトフォーラムの「ヨーロッパ外」コレクションの白眉となっている。アリー氏はその来歴を再構築したが、それはSPKが公式史として確立したものとは異なり、合法的な取得と見なされうるものではなく、実際には懲罰遠征の産物なのである。

ベルリンの博物館には南洋からの物件が6万5000点収蔵されている。アリー氏にとって、最低限の誠実さとは、これらの品々の「それぞれの植民地史」を語ることである。そうすれば来館者は、展示物を単なる異国情緒の対象としてではなく、ヨーロッパ人入植者たちによって体系的に破壊された「高度な文明の遺物」を目の前にしているのだと理解できるだろう。歴史家は、博物館が展示品の疑わしい出自を隠蔽するのをやめるよう求める。彼の最新刊は、かつて楽園であった南洋の島々の人々への、そして植民地史論争における「盲点」であるルフの船――彼が「偉大な文化の最後の証言」と呼ぶ船――へのオマージュとして読むべきだろう。

ヨーロッパ人が到来する前、ハーミット諸島には何百艘ものこのような船が存在した。全長15メートルを超えるこれらのアウトリガー(舷外浮材)付きの船は、釘を一切使わずに造られ、豊かに彩色されていた。50人を乗せることができ、外洋を長距離航行することも可能だった。ルフの船はこの造船技術の最後の例であり、他のすべてはドイツ人の懲罰遠征の際に破壊されたのである。

* ゲッツ・アリー『Das Prachtboot. Wie Deutsche die Kunstschätze der Südsee raubten(豪華な船――ドイツ人はいかに南洋の美術品を奪ったか)』Fischer、2021年。

シュトゥットガルト、リンデン博物館が市の植民地的過去を展示

ドイツ、2022年からベナン青銅器の返還へ――植民地美術をめぐる歴史的転換点

シュトゥットガルト市もまた、リンデン博物館内に設けられた展示・ワークショップの中で自らの植民地的過去を問い直すことで、この歴史の書き換えの動きに加わっている。「重い遺産(Heavy heritage)」と題されたこの企画では、展示品の一つひとつについて体系的な解説が行われる。一見すると来館者を圧倒するようなコメント装置だが、実際には極めて啓発的に機能していると『ターゲスツァイトゥング』紙は指摘する。

同博物館は1911年、カール・フォン・リンデンが会長を務めたヴュルテンベルク商業地理・海外ドイツ利益促進協会のコレクションをもとに創設された。もはや彼の肖像画を、その経歴を辿る解説パネルなしに展示することはできない。彼は「救済民族学」という実践によって収集熱心さを正当化した人物であり、ビスマルクの植民地政策に浸かった20世紀初頭のドイツ・エリート層の両義性を体現していた。コレクションの別の部分は、義和団戦争(1899~1901年)期に中国へ遠征したもう一人の「略奪者」である指揮官のコレクションに由来する。

さらに博物館は、1857年から1930年にかけて大衆娯楽として機能した「民族学的ショー」の文脈づけも試みている。ラップランド、インド、北米など遠隔の土地の人々を展示する一種の「人間動物園」を見に、ドイツの見物客たちが足を運んだのである。展示は対話への招待で締めくくられる。来館者は、博物館と市の植民地的過去、そして今日においても植民地主義が持続している可能性について、自らの声を表現するよう促されるのだ。同館の学芸員たちにとって、批判的距離と視点の重層化こそが、歴史を純粋にノスタルジックな観点からではなく、何よりも科学的な観点から捉え直すことを可能にするのである。