哲学者、医師、道徳家、そして伝記作家として知られるギリシア出身のプルタルコスは、西暦46年頃、ボイオティア地方に生まれました。当時高い尊敬を集めた人物であり、ギリシアとローマ(後に市民権を取得)をつなぐ架け橋となった彼は、とりわけ著名人たちの伝記と人物研究である『対比列伝』によって名を馳せました。偉大なギリシア人の生涯と偉大なローマ人の生涯を体系的に対比することで、二つの輝かしい文明の連続性を示そうとしたのです。その道徳的著作は、シェイクスピアの歴史劇の多くに影響を与えました。プルタルコスは西暦120年頃、テーバイでその生涯を閉じ、後世において古代史研究の重要な資料となっています。
プラトン主義者アンモニオスに学んだ青年期
西暦46年頃、ボイオティアの村カイロネイアに、おそらく良家の子として生まれた若きプルタルコスは、65年頃アテナイへ赴き、プラトン主義者アンモニオスのもとで科学と哲学を学びました。当時最高の学者として尊敬されていたアンモニオスは、プルタルコスにとって規範となる存在となり、彼は自らの著作の中でしばしば師を引用しています。この時期、皇帝ネロ自身がギリシアに滞在しており、プルタルコスは師とともに皇帝に従ってデルフォイを訪れたとも言われています。
その後、彼は医学の修得のためアレクサンドリアへ向かいます。修行を終えてカイロネイアに戻ったプルタルコスは、輝かしい任務を果たす準備を整えていました。
アテナイとローマの市民として
学業を終えたプルタルコスは、同胞から重要な任務を委ねられます。まずアカイア州の総督のもとへ遣わされ、78年にはカイロネイアおよび他のギリシア諸都市の代理としてローマに赴きました。これはウェスパシアヌス帝の治世末期のことです。この旅の際、彼は友人となるローマの歴史家L.メストリウス・フロルスと出会い、ともにブリクセッルムのオトーの墓を訪れました(後にプルタルコスはオトーの「列伝」を執筆することになります)。幾度か滞在したローマでラテン語を習得し、講義や教育を行って成功と敬意を勝ち取りました。
ローマからアジアにまで及ぶ旅を経てギリシアに戻ると、その名声は揺るぎないものとなり、彼はアテナイの市民権(レオンティス族)を獲得します。続いてデルフォイからも同じ栄誉を受け、100年頃には同地でアポロンの祭司を務め、さらにトラヤヌス帝の治世下ではアンフィクティオン(近隣諸国同盟)の監督官(エピメレテス)に就任しました。また私設の学園を創設し、そこで主に倫理学を、講義と討議の形式で教えています。妻ティモクセネとの間に五人の子をもうけましたが、四人の息子のうち長男は十代で、末子は乳児期に、一人娘は二歳で亡くなりました。これらの喪失は、『妻への慰め』という作品を生み出すこととなります。
皇帝トラヤヌスはプルタルコスの経歴において重要な役割を果たし、彼に執政官の名誉標章を授けました。その間、友人フロルス(彼から氏族名「メストリウス」を名乗るようになりました)と、トラヤヌス帝の親戚であるQ.ソシウス・セネキオ(99年、102年、107年の執政官)のおかげでローマ市民権を得、その後騎士階級に加わります。プルタルコスは、その教育の一部を担ったとも言われるハドリアヌス帝の下でアカイア州のプロクラトル(財務官代理)としてキャリアを終え、あらゆる人々から敬愛されながら、120年頃、当時としては高齢でテーバイにて世を去りました。
主著『対比列伝』
多才な学者であるプルタルコスは、何よりもまず道徳哲学者でした。歴史研究にとって彼が特に有用なのは、100年頃から書かれた『対比列伝』にまとめられた伝記群です。彼はこれらが伝記であって「歴史」ではないことを強調し、扱う事実の性質によって両者の違いを明確に示しています。プルタルコスは、自分にとって意義深と思われる事柄――否定的あるいは肯定的な模範性――を探し求め、著名な人物たちの鮮やかな肖像を描き出したのです。これらの「列伝」は口頭での朗読を想定して書かれており、全体で約五十篇、うち四十六篇が「対比」形式を取っています。たとえば、アレクサンドロス/カエサル、デモステネス/キケロ、リュサンドロス/スッラなどの組み合わせです。
プルタルコスはその方法論においても際立っています。文献資料を用い、それらを綿密かつ批判的に検討しました。一方でラテン語にはやや難があったようで、たとえばリウィウスに関していくつかの誤りを犯しています。『対比列伝』は歴史的価値を持つものの、その本質はむしろ人物像や性格の研究にあります。プルタルコスは道徳的な目的を追求しており、『ティモレオン伝』の中で、偉大な人々の生涯を大きな鏡に例えて次のように述べています。「私はその鏡を眺め、何らかの形で自分の人生を調整し、彼らの美徳の姿に適合させようと努めるのである」。彼はギリシアとローマという二つの民族の偉大さを想起させ、相互の敬意を呼びかけました。ただし彼にとってギリシアは依然として優越的な存在でした。こうしてプルタルコスは、グレコ・ローマン文明という概念を最初に認めた一人となったのです。
膨大な『道徳論集(モラリア)』
五十篇の歴史伝記からなる有名な『対比列伝』に加えて、プルタルコスは約八十篇からなる雑多な著作群の作者でもあります。これは通称『道徳論集』、あるいは『モラリア』と呼ばれます。
形式も内容も極めて多様な『道徳論集』の中で、プルタルコスは道徳そのものに関する主題(『徳と悪について』『富への愛について』『魂の平静について』『追従者と友について』)、教育学(『音楽について』『聞き方について』)、神学や宗教(『迷信について』『イシスとオシリスについて』『神罰の遅延について』)、歴史(『女性の武勇について』『ローマ問題』『ギリシア問題』)、歴史批評・文学批評(『ヘロドトスの悪意について』『アリストファネスとメナンドロスの比較』)、自然学(『自然の問題』)、動物学(『動物の知性について』)などを幅広く扱っています。
九巻からなる『食卓談義』(直訳すれば「饗宴について」)は、饗宴の作法から哲学、文献学、自然学に至るまでの問いを集めた作品で、プルタルコスの関心と好奇心の広さをよく物語っています。プラトン主義の信奉者(『プラトンの「ティマイオス」における魂の創造について』『プラトン問題』『ソクラテスのダイモーン』)である彼は、魂の不死、占い、摂理の正義を信じていました。しかし彼のプラトン主義は穏やかに和らげられたもので、「市民生活に順応する優しいものであった」(モンテーニュ)。また論争的な論文においては、ストア派やエピクロス派という論敵の学説についても深い理解を示しています。
遅れて訪れた巨大な名声
存命中、プルタルコスの名声は自らの属する地域に限られていたようです。その後の数世紀、ビザンツ世界や初期キリスト教の教父たちには高く評価されたものの、他の多くのギリシア人著述家と同様、西方ではほとんど無名のままであり、ルネサンスになってようやく再発見されました。マキアヴェッリが彼を称賛し、エラスムスもそのいくつかの論文を翻訳しています。ウィリアム・シェイクスピアは『対比列伝』から着想を得て、『コリオレイナス』『ジュリアス・シーザー』『アントニーとクレオパトラ』といった悲劇を生み出しました。
プルタルコスが後世に与えた影響は計り知れません。フランソワ1世の命により1542年に着手されたジャック・アミヨ(1513~1593)による翻訳は、1559年についに刊行されました。以後、プルタルコスはベーコン、ラブレー、モンテーニュ、ルソーらに影響を与え、高く賞賛されました。その著作はジュール・ミシュレをはじめとする人々にも影響を及ぼし、ミシュレは彼の最後の偉大な称賛者の一人となりました。今日なお、プルタルコスの作品は古代史研究における重要な資料であり続けています。
参考文献
- プルタルコス『対比列伝』F.アルトーグ編訳、ガリマール社、2002年
- J.ブーローニュ『エピクロスの鏡の中のプルタルコス』セプタントリオン大学出版局「哲学」叢書、2003年
- J.シリネルリ『カイロネイアのプルタルコス』ファイヤール社、2000年