歴史上の人物

ゴンサロ・ゲレーロ(1470-1536)──マヤ人の戦士となったスペイン人征服者

「スペイン人は、ゲレーロが自らの領土を守るためマヤ人を訓練することに身を捧げたと推測した」

ゴンサロ・ゲレーロはマヤ人に捕らえられ奴隷となったスペイン人征服者だった。数年後、エルナン・コルテスが彼を救出しようとしたとき、ゲレーロはすでにマヤ人の戦士となっていた。

若き日のゲレーロとグラナダ征服

ゴンサロ・ゲレーロは1470年、ウエルバ県パロス・デ・ラ・フロンテーラで生まれた。少年時代についてはほとんど知られていない。彼は船乗りよりも兵士としての道を歩み、1492年1月2日にカトリック両王の軍隊が「大将軍」ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバの指揮下でグラナダを陥落させた戦役において、火縄銃兵(アルケブシエール)として従軍した。その後も大将軍に従いナポリ遠征に参加し、スペインがヨーロッパでの影響力を拡大し、後に名高い「スペイン・テルシオ」の基礎となる軍制が形成される現場を経験した。

アメリカ大陸への渡航と遭難

1510年頃、ゲレーロはディエゴ・デ・ニクエサの遠征隊に加わりアメリカ大陸へ渡った。現地ではスペイン人同士の権力争いに巻き込まれ、やがてニクエサの敵対者であるフアン・デ・バルディビアに仕えることになる。ダリエンからフェルナンディナ島(現サントドミンゴ)へ向かう船「サンタ・マリア・デ・バルカ」で、奴隷と船員の監督役として乗船していた。

1511年8月15日、順風の中出航したが、3日目の未明に大嵐に見舞われた。暴風と巨大な波に船は大破し、座礁。ユカタン半島の海岸にたどり着いたのはわずか8名だった。彼らはココム族の領地に入り、抵抗した4名は処刑され、残りは捕虜となった。その後、ココム族と敵対するトゥトゥル・シュウ族の都市国家マニ(シャマン・ハ、現プラヤ・デル・カルメンを含む)の領地へ移され、カシケ(酋長)タックスマールによって司祭テオホムの奴隷として引き渡された。過酷な労働で次々と命を落とす中、ゲレーロとヘロニモ・デ・アギラールの二人だけが生き残った。アギラールは後の証言で、薪や水、魚を背負わされる重労働を「命を永らえるため喜んで耐えた」と語り、どんな些細な命令にも即座に従う卑屈な生活を強いられていたと述べている。

二人のスペイン人の分岐

アギラールは自らの文化とキリスト教の信仰を貫いたが、ゲレーロは多くの犠牲を払いながらマヤ文化へ同化していった。タックスマールは二人の働きぶりと、敵対部族との戦いで見せた軍事的才能に注目し、彼らを軍事顧問として登用することを決めた。ゲレーロはマヤの戦士たちに、方陣や縦隊などの陣形、交代で戦列に加わるローテーション戦法、側面攻撃、マケドニア式ファランクスなどヨーロッパの戦術を教え、ココム族を撃破して大きな名声を得た。

その後、ゲレーロはチェトゥマル湾北部のイチパトゥンに住むチェル族のカシケ、ナ・チャン・カンに譲られ、さらにそのナコム(軍事指導者)バラムのもとへ預けられた。バラムはゲレーロを厚遇し、川を渡る際にワニに襲われたバラムをゲレーロが救出したことで、彼は自由の身となった。

マヤ人のナコムとして

自由戦士となったゲレーロは数々の遠征で戦功を挙げ、儀式的な入れ墨や耳飾り、前額の変形など、階級を示す身体改造を自ら受け入れた。カシケの娘ザジル・ハーと結婚し、ナコムの地位に上り詰め、自分の子供たちにも前額変形の儀式を施した。痛みと死を恐れない戦士としての儀式にも自ら進んで臨み、その同化ぶりは徹底していた。長女イシュモがバッタの大群を鎮めるためチチェン・イッツァで生贄に捧げられたとの伝承もあるが、史料的裏付けはない。

コルテスの救出提案と拒絶

1519年、エルナン・コルテス率いる遠征隊がコスメル島に上陸し、島に二人のスペイン人がいることを知ると、書簡を送って救出と遠征への参加を呼びかけた。コルテスは現地語の通訳を必要としていたのだ。書簡には「八日間待つ。身代金も用意する。五百の兵と十一隻の艦でここに待機している」と記されていた。

書簡を受け取ったアギラールは主人の許可を得てゲレーロのもとへ駆けつけ、帰還を説得した。しかしゲレーロはこう答えたという。

「兄弟アギラールよ、私はすでに妻があり、三人の子供がいる。戦となればカシケかつ隊長として扱われ、顔には彫り物があり、耳には穴が開いている。こんな姿でスペイン人の前に出れば何と言われるだろう。お前は神とともに行け。私の子供たちがどれほど美しいか見てみろ。お前が持っている緑の玉をくれ、兄弟たちが故郷から送ってくれたと伝えるから」

ゲレーロの妻ザジル・ハーは会話を理解すると、アギラールを罵った。「見ろ、この奴隷が私の夫を呼びに来た。悪い時に来たものだ、あとは放っておけ」と。アギラールはさらに「キリスト教徒としての魂をインディオの女ごときで失うのか。妻子が惜しければ連れて行けばよい」と説得したが、ゲレーロの決意は揺らがなかった。アギラールだけがコスメル島へ戻り、コルテスの通訳として歴史の舞台に登場することになる。

スペイン征服軍への抵抗

ゲレーロはその後も複数のスペイン遠征隊(グリハルバ、フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ、コルテス)の帰還要請を拒み、マヤ側について戦った。スペイン側の記録では、彼はマヤ戦士たちを訓練し、ヨーロッパ人の戦い方に対抗する術を教え込んだと推測されている。実際、1527年にフランシスコ・デ・モンテホ(父子)とその部将ダビラが380名の兵でユカタン征服を試みた際、予想以上の苦戦を強いられたのはゲレーロの指導があったからだと言われている。彼は戦士たちに「白人を信じるな、決して屈するな」と説き、領土防衛に徹した。

モンテホはゲレーロへ書簡を送り、キリスト教徒としての信仰を思い出させ、帰順すれば赦免すると約束したが、ゲレーロは「約束はしばしば破られることを知っている(自分もそう教えてきた)」として丁寧だが毅然と拒絶。「妻子を捨てられないうえ、カシケの権威下にある身だが、神を忘れたわけではなく、良好な関係を望む」と返した。外交が失敗すると、アルロンソ・ダビラ隊長率いる部隊がユカタンへ侵攻。チャクツマルへ到達し(伝説の金鉱は存在しなかった)、ゲレーロの身柄確保を図ったが、マヤ側の工作で「ゲレーロは自然死した」との虚報を流され、モンテホへ死亡報告が上がった。

最期──ウリュア川の戦い

実際の死は1536年、ホンジュラスのティカマヤ村のカシケ、シクンバ(トルパン族)を助けるため、50隻のカヌーでロレンソ・デ・ゴドイ隊長率いるスペイン軍と戦った際だった。ボウガンの矢が臍を貫き脇腹へ抜け、さらに火縄銃の弾丸を受けて致命傷を負った。部下たちが戦場から離れたヤシの木陰へ運ぶと、ゲレーロは近しい者たちに「子供たちと、千人を超える部下たちを頼む。戦い続けろ」と遺言し、息を引き取った。撤退の際に遺体は敵陣に残されたが、夜になって部下たちが回収し、最後の敬意としてウリュア川へ流し、彼がやって来た大海原へ還した。後世、スペイン兵の一部が「入れ墨を施しインディオの装いをしながら、髭を蓄えていた」と証言している。

評価の変遷──裏切り者から抵抗の象徴へ

長らくスペイン側の史料では、ゲレーロはカトリック信仰を捨てた「裏切り者」として憎悪の対象とされた。アギラール(おそらく副執事だった)の証言に基づく編年史家たちは、自らの貞節と王・神への忠誠を強調するアギラールと、女を娶り家族を持ち、捕虜だった相手と血を混ぜ、その文化と神々を受け入れたゲレーロを対比させ、後者を堕落した存在として描いた。

しかしメキシコ独立後、多くのメキシコ人が先祖が闘ったマヤ文明を再評価する中で、ゲレーロは植民地主義・帝国主義的権力に抗した象徴的人物として称えられるようになった。今日、彼は「最初のメスティーソ(混血児)の父」とも、「二つの世界の狭間で自らの道を選んだ男」として、歴史と文学の両面から語り継がれている。