三・一独立運動に身を投じた女子学生、ユ・グァンスン(柳寬順、1902年~1920年)。日本による朝鮮支配に抗い続け、その短い生涯を捧げた韓国抵抗運動の象徴的な人物です。
聡明な少女時代
ユ・グァンスンは1902年12月16日、ソウルから南へ約80kmの忠清南道・天安で、父ユ・ジュングォンと母イ・ソジェの間の3人兄弟の次女として生まれました。日本による植民地支配が深まるさなかに育ちましたが、家庭では信仰心と民族への誇りを大切にする教育を受けて成長しました。
幼い頃から鋭い知性と優れた記憶力で周囲の注目を集めていた彼女は、成長後に教師の推薦を得てソウルの梨花学堂(現在の梨花女子大学)に入学。教員になることを目指して学びの日々を送りました。
三・一独立運動との出会い
1919年、朝鮮の国王にして初代皇帝である高宗(閔妃の夫)が、日韓関係が緊張を極めるなかで死去します。日本人による毒殺の噂が広まり、民衆の怒りは限界点に達しつつありました。同年3月1日、33名の独立運動家が朝鮮独立宣言書を読み上げます。彼らはすぐに検挙されましたが、これに呼応してソウルの街には大勢の群衆が集まり、学生が宣言書を朗読する声に耳を傾けました。
集会は瞬く間に全国規模の大衆デモへと発展します。ユ・グァンスンもソウルでのデモに加わりました。運動の拡大により学校は閉鎖され、彼女は故郷の天安にある実家へ戻ります。一方、運動を抑え込めなくなった日本の憲兵たちは、デモ隊への暴力をエスカレートさせていきました。
逮捕と両親の死
帰郷後もユ・グァンスンの活動は止みませんでした。家族とともに各地の教会を訪れては、ソウルで起きたデモの様子を語り、人々に日本の占領への立ち上がりを訴え続けました。そして4月1日、彼女は約3,000人の独立運動家を結集させた大規模な抗議行動(アウネ万歳運動)を主導します。
これに対し日本の警察はユ・グァンスンらデモ参加者を一斉に逮捕。集会は混乱に陥り発砲事件が発生し、若き活動家の両親は、この凄惨な弾圧の中で命を落としました。全国では暴力が虐殺へと変わっていき、三・一運動弾圧全体で7,000人以上が死亡、16,000人以上が負傷したと伝えられています。
獄中での不屈の抵抗
ユ・グァンスンには、当局への協力と引き換えに刑を軽減するという提案がなされましたが、彼女はこれを毅然と拒否。拷問を受けても沈黙を貫き通しました。天安、ついで公州の監獄に収監された後、騒擾罪で懲役5年の判決を受け、ソウルの西大門刑務所へと移送されます。
それでも獄中の彼女は、度重なる制裁を受けながらも朝鮮独立を求める活動を決して諦めませんでした。1920年には仲間の受刑者たちとともに、三・一運動を記念する獄内デモを計画。その報復として独房監禁と激しい拷問にさらされ、出所予定日をわずか数週間後に控えた1920年9月、17歳という短い生涯を閉じました。
1962年、ユ・グァンスンは建国勲章を追贈されました。何ものにも屈しない信念と不屈の精神を貫いた彼女は、今日においてもなお、韓国独立運動の真の象徴として人々の記憶に刻まれ続けています。