歴史上の人物

91. カシミール問題は国連に持ち込まれた――サルダール・パーテールがネルーに激怒した理由

91. カシミール問題は国連に持ち込まれた――サルダール・パーテールがネルーに激怒した理由

カシミール侵攻とパーテールの危機対応

1947年9月、パキスタン軍がカシミールへ侵攻すると、サルダール・パーテールはただちにインド軍を派遣してカシミールを守り抜く意向を示した。しかしジャワーハルラール・ネルーとマウントバッテン総督はこれに反対し、「カシミール藩王がインドへの加盟を正式に表明するまでは、インド軍をカシミールに送るべきではない」と主張した。パーテールはこの制約の中でも、スリナガルとバラムーラ峠を守るために奔走した。

パーテールは国防相バルデブ・シングと緊密に連携し、カシヮール国境沿いのインド領内に治安部隊を配置し、必要となれば即座に戦域へ投入できる体制を整えた。さらに、スリナガルからパタンコートへ至る道路の建設も実現させた。

国連への提訴とパキスタンの反論

サルダール・パーテールは本来、この問題を国連に持ち込むことには反対だった。しかしマウントバッテンの助言を受け、ネルーは問題を国際舞台へ引き出すことを決めた。1948年1月1日、インドは安全保障理事会に対し、インドの一部であるカシミールが武装した部族民によって侵略され、パキスタンが彼らに直接的・間接的に援助を与えていると訴えた。

インドは「彼らの侵略は国際平和と秩序を脅かしている。したがってパキスタンには軍の撤退と部族民への軍事支援の停止が求められ、パキスタンのこの行為はインドへの攻撃とみなされるべきだ」と主張した。

これに対し1948年1月15日、パキスタンはインドの主張を退け、逆にインドの不正を非難した。パキスタンは「ジャンムー・カシミールのインドへの加盟は違憲であり、承認できない」と述べた。安全保障理事会は問題解決のため5カ国委員会を設置し、現地の状況を視察して妥協案を作成するよう指示した。

停戦合意と頓挫した住民投票

国連委員会はカシミール入りして実地調査を行い、1948年8月13日、戦闘を停止して妥結するための複数の提案を双方に提示した。これをめぐって長い協議が続いた結果、ついに1949年1月1日、両者は停戦で合意した。同時に、カシミールの最終的な帰属は住民投票(プレビサイト)によって決定することも取り決められた。

そのためにアメリカ人のチェスター・ニミッツ海軍元帥が管理者に任命されたが、パキスタンが合意条件を遵守しなかったため、住民投票はついに実施されなかった。ニミッツは職を辞任した。

泥沼化した問題とパーテールの怒り

こうしてカシミール問題は、国連に持ち込まれたことでかえって複雑に絡み合い、泥沼化することになった。この結果について、サルダール・パーテールはジャワーハルラール・ネルーに対して強い怒りを抱いたのである。

その後、1965年にはカシミールをめぐって再びパキスタンとインドの間で戦争が勃発した。そして今日に至るまで、カシミールの広範な地域は依然としてパキスタンの支配下に置かれ続けている。