内相パテルを襲った第二の試練――大量難民の流入
インドの内相としてサルダール・パテルが直面した二つ目の大きな課題は、東パキスタンと西パキスタンから流入する難民への迅速な対策を講じることでした。歴史家マイケル・ブレッチャーは、インドとパキスタンの間で行われた人口交換について、噂、恐怖、そして狂乱によって約1,200万人が両国間で入れ替わったと記しています。その半数がヒンドゥー教徒、残る半数がムスリム(イスラム教徒)でした。
一方、モーズリーはこの数字を1,400万人とし、クシュワント・シンは1,000万人としています。これらを総合すると、500万から600万人がパキスタン領からインドへ逃れ、ほぼ同数の人々がインドからパキスタンへ移動したと推測されます。これほど膨大な人数を再定住させることは、国家を挙げて取り組むべき重大な問題でした。
パキスタンへの警告と、あふれる難民
東パキスタンから大量の難民がインドへ流れ込み始めると、サルダール・パテルはパキスタンに対し、「流入を止めなければ、その人口に比例してパキスタンから土地を要求する」と強く警告しました。しかし、この警告はパキスタンには何ら効果をもたらしませんでした。結果として、インドの首都デリーは西パキスタンと東パキスタンからの難民であふれかえることになったのです。
夕方には何もない空き地に見えた場所も、翌朝には数千人の難民が一夜にしてキャンプを張っている――そんな光景が日常となりました。彼らは飢えと渇きに苦しみ、冬の寒さ、雨、そして病気に悩まされながら、パキスタンにすべての財産を置いて逃れてきたのです。
怒りと悲しみ、そして暴動の防止
彼らの姿を見た者は、誰もが深い同情を禁じ得ませんでした。多くの難民にとって、親族がパキスタンで殺害されていたため、胸の内には激しい怒りが渦巻いていました。パキスタンで受けた虐殺や暴行の報復を、インドの土地で果たそうとする者さえいたのです。そこでサルダール・パテルはデリーに大量の警察と軍隊を配備し、暴動が首都全体に広がるのを防ごうとしました。
昼夜を尽くした内務省の救援活動
サルダール・パテル率いる内務省は、難民の再定住のために昼夜を問わず働き続けました。それは、独立の喜びをすべて消し去ってしまうほどの深刻な危機でした。難民のために各地にテントが張られ、飲み水が供給され、仮設トイレや仮設病院が次々と建設されました。
パテルは国防大臣のサルダール・バルデフ・シンに対し、難民の一時滞在先として空いている「ウェーヴェル食堂(Wavell Canteen)」の提供を要請しました。バルデフ・シンはこれに応え、内務省にウェーヴェル食堂だけでなく、大量の難民を収容できるアーチン湖畔の保養施設までも提供しました。
さらにパテルは、イギリス兵の撤退後に大量の軍用兵舎が空き家になっていることを知ると、バルデフ・シンに対しそれらの兵舎の提供も求めました。寛大な性格で知られたサルダール・パテルは、かつてグジャラートの諸運動において、何度も民衆からの寄付を集めて人々を救ってきた人物です。だからこそ、彼は助けを求めることを決して恥とはせず、可能な限りのあらゆる場所から支援を集め、それを難民たちに捧げ続けたのです。