歴史上の人物

第15章 ムガル帝国の再侵攻――シヴァージーの奇襲と反撃

第15章 ムガル帝国の再侵攻――シヴァージーの奇襲と反撃

戴冠式や母后・王女たちの葬儀に関わる一連の行事が一段落すると、シヴァージーの注意は、ビーマー川近くのペンドガオンに陣を構えていたムガル帝国のスバダール(総督)バーダードゥル・ハーンへと向けられました。アウラングゼーブはディーラー・ハーンを再びデリーへ召還していたため、この時期、南インドにおけるムガル勢力の代表はバーダードゥル・ハーンただ一人となっていました。

ペンドガオンの奇襲作戦

シヴァージーの戴冠式の直後、州内では大雨が降り続いていましたが、シヴァージーは雨など意に介さず、2,000騎の騎兵をムガル軍への攻撃に派遣しました。作戦の狙いは、マラーター軍がムガル軍に挑んで陣営からできるだけ遠くへ引き離し、その隙にシヴァージー自身が7,000騎を率いて背後からムガルの陣営を急襲・壊滅させるというものでした。

この計画は見事に成功しました。シヴァージーはムガル軍の陣営に火を放ち、皇帝への献上品として集められていた2クロール(2,000万)ルピーの財宝、200頭の馬、その他の貴重品を略取しました。10月中旬には、シヴァージーの軍が再びバーダードゥル・ハーンの陣営を包囲します。さらにその軍はアウランガーバード近郊の多くの都市を略奪し、そこからバグラーナとカーンデーシュへ侵入して、約1か月にわたりムガル領を荒らし回りました。

条約提案と裏切り

一方でシヴァージーは、バーダードゥル・ハーンを通じてアウラングゼーブに講和の提案を行いました。その内容は、アウラングゼーブがシヴァージーの息子サンバージーに七千乗(サット・ハザーリー)のマンサブ(位階)を与えること、その見返りとしてシヴァージーが17の要塞を献上するというものでした。バーダードゥル・ハーンはこの提案を自らの推薦状とともにアウラングゼーブへ送り、皇帝もこれを受け入れました。

ところが、皇帝の承認が届くや否や、シヴァージーはあっさり条約を反故にしました。激怒したアウラングゼーブは、非難に満ちた書簡を添えてバーダードゥル・ハーンを再び派遣します。これを受けてバーダードゥル・ハーンは、ムガル帝国がビジャープルおよびゴールコンダと同盟を結び、三勢力が一致してシヴァージーを攻撃するという計画を立案しました。アウラングゼーブもこの提案を受け入れます。

アウラングゼーブが何としてでもシヴァージーを排除しようとしたのには理由がありました。シヴァージーの戴冠式の話はインド全土で大々的に語られており、まるでインドにヒンドゥー王国が間もなく成立するかのような機運が漂っていたからです。

ヴェーダヌール遠征

当時、シヴァージーはカナラ方面への遠征を行っていました。その折、ヴェーダヌールの王妃ティマンナーから、ヴェーダヌールの司令官が自分を軽んじているため助けてほしいという使者が届きました。シヴァージーは援助を約束し、その見返りとしてヴェーダヌールにチャウト(防衛税の4分の1)を課すことを申し出ました。王妃ティマンナーはこの提案を受け入れます。シヴァージーは司令官を抑え込んで王妃を助け、ヴェーダヌール王国からチャウトを徴収することに成功しました。

シヴァージーの病

一方、世継ぎのサンバージーは、長きにわたってアウラングゼーブの息子ムアッザムと接触しており、その影響で心が乱れていました。そのため戦争にも民にもほとんど関心を持たず、酒に溺れ、女たちと過ごす日々を送っていたのです。将来のマラーター王となるべき人物のこうした振る舞いを目にするたび、シヴァージーは深く憂慮していました。この心労のため、西暦1675年末、シヴァージーは重い病に倒れます。病の知らせは風のように広まり、まもなく「シヴァージー死去」の噂まで流れました。しかしシヴァージーは医師たちの治療によって次第に回復し、再びヒンドゥー帝国樹立の事業へと身を投じたのです。

ムハンマド・クリー・ハーンの起用とネータージーの帰還

かつてシヴァージーの右腕と謳われ、「第二のシヴァージー」と呼ばれたネータージー・パールカルは、ジャイ・シングの手引きでムガル側に引き入れられ、イスラームへ改宗させられた上で、8年間アフガン国境に配属されていました。彼は今や「ムハンマド・クリー・ハーン」と名乗っていました。

アウラングゼーブは、このムハンマド・クリー・ハーンをシヴァージー討伐に起用することを決めます。彼はシヴァージーの王国の地理的条件を熟知していたからです。さらにアウラングゼーブは、南インドで長年勤務し、シヴァージーとの戦いの経験も豊富なディーラー・ハーンも、ムハンマド・クリー・ハーンとともに南方へ派遣することにしました。二人のムガルの将軍は、シヴァージーの首都サーターラー近郊に陣を張りました。

しかしある日、ムハンマド・クリー・ハーンは突如ムガルの陣営から脱走し、真っすぐシヴァージーの庇護のもとへ走りました。「私を浄め、もう一度ヒンドゥーに戻してください」と懇願したのです。シヴァージーは旧友をヒンドゥー教へ復帰させる手配を整えました。西暦1676年6月19日、ネータージー・パールカルは正式にヒンドゥー教へ再改宗し、以後は生涯シヴァージーに仕え続け、シヴァージーの死後もサンバージーへの忠誠を保ちました。こうしてアウラングゼーブの企ては、またしても空しく終わったのです。