アメリカ訪問中のブレジネフ。
権力への道
レオニード・ブレジネフ(1906~1982年)は、共産主義運動家、ソビエト連邦の政治家であり、事実上の独裁者として君臨した人物です。ウクライナの製鉄労働者の息子として生まれました。1930年代後半から党機構内で頭角を現し、まずウクライナ、続いてモルダヴィア、カザフスタンでキャリアを重ねました。1957年にはソ連共産党中央委員会幹部会(プレジディウム)のメンバーに就任しています。
最高指導者としての約20年
1964年、当時のソ連指導者ニキータ・フルシチョフが失脚すると、ブレジネフは第一書記に就任しました。この職(後に書記長へと改称)を約20年間にわたって務め、1982年に死去するまでその地位にとどまりました。彼の時代は経済的停滞から「停滞の時代」と呼ばれる一方で、米ソ間のデタント(緊張緩和)が進み、戦略兵器制限交渉(SALT)といった外交的成果も生まれました。
しかし同時に、ブレジネフは1968年のワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキア介入(いわゆる「プラハの春」の弾圧)の責任者でもありました。さらに、アフガニスタンにおける長期に及ぶ戦争へと踏み込み、この戦争はソ連の国家財政を圧迫しただけでなく、国際社会におけるソ連の威信をも大きく損なう結果となりました。
「ブレジネフ・ドクトリン」とポーランド
東側諸国の主権を制限するという「ブレジネフ・ドクトリン」(制限主権論)を厳格に貫く強硬派という評価は、ポーランドで自主管理労組「連帯」が拡大し始めた際に、重要な意味を持つようになりました。1981年にポーランドで戒厳令が敷かれた背景には、ブレジネフがかつてチェコスロバキアに対して取ったのと同じ手段を、今度はポーランドに対して用いるのではないかという強い懸念があったとされています。
晩年と死
晩年のブレジネフは、高齢化による心身の衰えが顕著になり、数多くの政治ジョークの題材となるほどでした。公式には老衰・病気による自然死とされていますが、実際には暗殺された可能性があると指摘する見方も存在します。