歴史上の人物

ヴワディスワフ・シコルスキ(1881–1943)|ポーランドを支えた軍人政治家の生涯

ヴワディスワフ・シコルスキ(1881–1943)|ポーランドを支えた軍人政治家の生涯

両大戦間期のヴワディスワフ・シコルスキ

ヴワディスワフ・シコルスキ(1881–1943)

ヴワディスワフ・シコルスキ(Władysław Sikorski、1881年–1943年)は、ポーランドの政治家・軍人です。ポーランド共和国の首相を国内政府と亡命政府の両方で二度にわたって務め、特に第二次世界大戦中は亡命ポーランド政府の指導者として、またポーランド軍総司令官として国の存続に尽力しました。

生い立ちと独立運動

1881年5月20日、サンドミェシュ近郊のトゥシュフ・ナロドヴィに生まれました。1904年にオーストリア=ハンガリー帝国陸軍へ入隊し、少尉の階級を取得しています。当時はポーランド独立運動にも関与し、ポーランド社会党(PPS)の支持者でもありました。彼が行った歩兵戦術に関する講義には、後にポーランドの指導者となるユゼフ・ピウスツキ、カジミェシュ・ソンクフスキ、ヴァレリ・スワヴェク、アレクサンデル・プルィストルらが聴講に訪れています。

ポーランド・ソビエト戦争での武勲

1918年のポーランド独立後はポーランド軍に所属し、「バルトゥフ」作戦集団の指揮官として初めて軍事的成功を収めました。ウクライナ軍との戦闘では包囲されたリヴィウへの救援を組織し、続いてポーランド・ソビエト戦争に従軍します。1919年7月中旬にはタルノーポリとズバラジュを占領し、その後、ポレーシェ集団の中核を成す第9歩兵師団の司令官に任命されました。

1920年2月26日にはモーズィリとカレンコヴィチェへの攻撃を成功させ、この功績により将軍に昇進します。

同年8月6日、ミハイル・トゥハチェフスキー率いるソ連西方面軍の猛攻に対し、北翼の機動防御を担う第5軍の司令官に任命されました。装備の不足、防御準備のための時間不足、十分な訓練を受けていない兵士といった不利な条件の中でも、シコルスキは積極的な攻勢によって敵の進撃を食い止めることに成功します。これはヴィープシ川沿いからの反攻と相まって、ワルシャワの戦いにおける決定的な転換点となりました。これらの功績が認められたシコルスキは第3軍の司令官に就任し、ボリシェヴィキ軍を破り続けました。

戦間期のキャリアと失脚

戦後は参謀総長(1921年–1922年)、首相兼内務大臣(1922年12月–1923年5月)、軍事大臣(1924年–1925年)を歴任するなど、若きポーランド国家の要職を担いました。しかし1926年の五月クーデターでは合法政府側についたため、現役軍務から外され、政界からも遠ざかることとなりました。

第二次世界大戦と亡命政府

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、シコルスキはルーマニア経由でフランスへ脱出し、同年9月30日に亡命ポーランド政府の首相に就任しました。1940年6月以降はイギリスに拠点を移し、ロンドンで自由ポーランドの勢力を統率します。

1941年夏にはポーランド・ソビエト協定(いわゆる「シコルスキー=マイスキー協定」)の締結を実現しました。これによりソ連抑留中のポーランド人が解放され、その中からヴワディスワフ・アンダース将軍率いる「アンダース軍」が編成されることとなりました。

ジブラルタルでの悲劇的な最期

1943年7月4日、シコルスキはジブラルタルでの飛行機事故により死亡しました。事故の原因については今日なお議論があり、暗殺説などさまざまな憶測が語られていますが、確定的な証拠は示されていません。彼の死は、苦難の道を歩む亡命ポーランド政府にとって大きな打撃となりました。