歴史上の人物

ジャン・シルヴァン・バイイ(1736年~1793年):天文学者からパリ市長へ――栄光と断頭台の人生

ジャン・シルヴァン・バイイ(1736年~1793年):天文学者からパリ市長へ――栄光と断頭台の人生

ジャン・シルヴァン・バイイ(Jean Sylvain Bailly、1736年~1793年)は、画家や彫刻家、学者を多数輩出したフランスの名家に生まれた人物です。彼自身は作家兼天文学者として名を馳せ、1785年にはフランス・アカデミー、美術アカデミー、科学アカデミーの三つの学士院に同時に所属するという稀有な栄誉に浴しました。

天文学者としての輝かしい業績

バイイはハレー彗星や木星の衛星に関する研究で高い評価を受け、また『天文学史』などの著述活動でも知られていました。学者としての名声は絶大で、当時のフランス知識人社会において第一級の存在と見なされていました。

フランス革命と国民議会議長へ

1789年、三部会が召集されると、バイイは第三身分(平民)の代表としてパリから選出されます。そして国民議会が発足すると、その初代議長に選ばれ、「球戯場の誓い」など革命初期の歴史的場面を主導する立場となりました。

パリ初代市長として

1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃の後、バイイは新生パリ市の初代市長に就任します。革命の英雄として民衆から熱狂的な支持を受け、その名声は頂点に達しました。

支持の失墜と悲劇的な最期

しかし、その後の彼の政治的判断は運命を左右することになります。ヴァレンヌ逃亡事件では国王ルイ16世を擁護する姿勢を示したことで民衆の信頼を失い、さらに1791年のシャン・ド・マルスの集会では、ラファイエットに無套褲漢(サンキュロット)たちへの発砲を命じました。この「シャン・ド・マルスの虐殺」により、彼は革命派から裏切り者とみなされるようになりました。
同年11月に市長職を辞任したバイイでしたが、恐怖政治の時代に入ると旧体制寄りの人物として追及され、1793年にギロチンによって処刑されました。学者として頂点を極めながら、激動の革命の中で悲劇的な最期を遂げた人物として、今日も記憶されています。