チルデベルト1世とは
チルデベルト1世(Childebert I、495年頃 – 558年)は、フランク王国の創始者クローヴィス1世とその王妃クロティルドの間に生まれた息子であり、メロヴィング朝の分王国の一つであるパリ王国を統治した王です。父クローヴィスが511年に死去すると、フランク王国は伝統に従って四人の息子たちに分割され、チルデベルトはガリア西部、セーヌ川とロワール川の間に広がる領域を中心としたパリ周辺の支配権を受け継ぎました。
ブルグント戦争と兄クロドメールの死
チルデベルトは兄弟たちと共に、東隣に位置するブルグント王国への遠征に参加します。しかし524年のウェゼロンスの戦いで、オルレアンを領していた長兄クロドメールが戦死してしまいます。この出来事が、悲劇的な後継者問題の発端となりました。
クロドメールには幼い息子たちが残されていましたが、チルデベルトは末弟クロタール1世と共謀し、彼らを殺害して叔父たちで領土を分配してしまいました。この冷酷な行為は、メロヴィング朝の権力闘争の過酷さを象徴する出来事として知られています。
ブルグント王国の併合
534年、チルデベルトとクロタールは再び手を組み、ブルグント王国への最終攻勢を仕掛けます。この結果、ブルグント(現在のブルゴーニュ地方)はフランク王国に併合され、王国の版図は大きく広がりました。
西ゴートとの戦いとパリの発展
その後も二人の兄弟は協力関係を保ち、イベリア半島の西ゴート王国へ遠征を行いました。チルデベルトはパンプローナを攻略し、サラゴサを包囲するなど活躍し、持ち帰った聖ヴィンセントの聖遺物を納めるためにパリに修道院を建立しました。これが後のサン=ジェルマン=デ=プレ修道院の起源であり、彼自身もこの地に葬られています。
死去と王国の再統一
558年12月13日、チルデベルト1世は子孫を残さないまま死去しました。これにより、当時存命していた唯一のクローヴィスの息子であるクロタール1世がフランク王国全体を回復し、祖父クローヴィス以来となる王国の再統一を果たしたのです。