
ジャン=ド=デュー・スールト(1769年〜1851年)は、ナポレオン麾下の元帥として名を馳せたフランスの名将です。アウステルリッツの戦いでプラツェン高地を奪取した功績により「ヨーロッパ一の機動」と絶賛され、その名はイエナやアイラウの戦場にも輝きました。さらにスペイン戦線ではポルトガル王位すら噂される存在となり、晩年は王政復古期から七月王政にかけて軍人・政治家としてフランスを支えた、19世紀を代表する人物の一人です。
アウステルリッツの英雄――プラツェン高地の奪取
1805年12月2日のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)で、スールトは第4軍団を指揮し、朝霧に紛れて連合軍の守り手薄となった中央のプラツェン高地を奇襲・占領しました。この決定的な機動こそがナポレオン最大の勝利を支えたものであり、彼の用兵は「ヨーロッパ一の機動(premier manoeuvrier d'Europe)」と称えられることになります。
イエナ、アイラウ、そしてスペイン半島へ
続く1806年のイエナの戦い、1807年のアイラウの戦いでも主力として奮闘し、1808年にはダルマチア公に叙せられます。以降はスペイン半島戦争に転戦し、ポルトガル遠征ではポルトを占領するなど勢威をふるいました。しかしウェリントン率いる英軍とスペイン軍の反攻に阻まれ、1814年4月には自軍の約4倍の兵力を擁する連合軍を前にトゥールーズで敗北。ここに長きにわたる半島での戦いに幕が下ろされました。
王政復古と七月王政の時代
ナポレオン失脚後、スールトはルイ18世に仕えて陸軍大臣を務め、フランス貴族院議員(ペール・ド・フランス)にも列せられました。百日天下の際には一時ナポレオンのもとへ戻りワーテルローの戦いにも参陣しますが、亡命期間を経て再びブルボン家への忠誠を誓います。そして七月王政下のルイ・フィリップ1世の時代には閣僚評議会議長(首相)を三度務め、通算7年にわたって政権を主導しました。戦場の達人であると同時に、老練の政治家としても重きをなした稀有な人物といえます。