ローマで育ったジュール・マザラン(Jules Mazarin、1602年7月14日-1661年3月9日)は、若くして卓越した外交の才能を発揮しました。スペイン滞在を経て、ローマ教皇庁に仕える使節(聖座の外交代理官)としてミラノに赴任し、外交官としてのキャリアを本格的にスタートさせます。
リシュリューに見出された外交官
1630年のカザーレ包囲の解除(三十年戦争の一環として起こった紛争)、1631年のケラスコ条約(マントヴァ継承戦争を終結させた条約)への貢献、さらに1640年にサヴォイア公たちをフランス側へ引き込んだ同盟工作などにより、マザランは宰相リシュリューとルイ13世から高い評価を受けるようになりました。そして1642年、彼は枢機卿に任命されます。
摂政アンヌ・ドートリッシュの信任
ルイ13世の死後、幼いルイ14世の摂政となったアンヌ・ドートリッシュの信頼を勝ち取ったマザランは、首相に任命され、さらに財務総監(1643-1646)も兼ねるなど、王国政治の実権を握りました。1648年にはヴェストファーレン条約の締結を実現し、長きにわたる戦争に終止符を打ちます。
フロンドの乱と亡命
しかし、王権の強化と君主制の伸長に対して貴族たちが反旗を翻す「フロンドの乱」が勃発すると、マザランはその標的となり、一時国外への亡命を余儀なくされました。
ルイ14世の下での再起と業績
やがてルイ14世はマザランを呼び戻し、大臣に任命します。復帰後のマザランは王国の拡大と安定化に尽力し、戦争を終結させるため、国王とスペイン王女との結婚を進言。これによりピレネー条約が締結され、フランスとスペインの戦争は幕を閉じました。
文化への貢献
莫大な富を築いたマザランは、美術品や傑作のコレクションを集める一方、フランス初の図書館を創設し、画家シャルル・ルブランとともに王立絵画彫刻アカデミーを設立するなど、文化振興にも大きく寄与しました。
絶対王政の基礎を築いた死
1661年3月9日、マザランはこの世を去ります。彼の死の時点で、ルイ14世は補佐役なしに単独で統治できるほどの強固な絶対主義体制がすでに確立されていました。マザランの政治的遺産は、後の「太陽王」時代の繁栄の土台となったのです。
生没年:1602年7月14日-1661年3月9日
地位
- 枢機卿
- フランス首相