サンドロ・ボッティチェッリとは
サンドロ・ボッティチェッリ(本名:アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペピ)は、1445年3月1日頃、フィレンツェに生まれたイタリア・ルネサンス初期を代表する画家です。「小さな樽」を意味する「ボッティチェッロ」というあだ名に由来して「ボッティチェッリ」と呼ばれるようになったと言われています。彼の芸術は、ロレンツォ・デ・メディチ(壮麗公)が君臨し、フィレンツェが最も栄華を極めていた時代に花開きました。

金細工師から画家への道
ボッティチェッリは当初、金細工師のもとで修業を積みました。この経験こそが、後の彼の絵画に見られる彫刻のような精緻で引き締まった線描の源泉となったと考えられています。やがて絵画への強い憧れを抱くようになった彼は、フィレンツェ出身の修道士にして画家であるフラ・フィリッポ・リッピに師事し、本格的に画家への道を歩み始めました。
主要作品とその芸術性
最初の大作となったのは、パトロンであったメディチ家の人々を画面の中に描き込んだ《東方三博士の礼拝》です。1481年には、教皇シクストゥス4世の依頼により、ローマのシスティーナ礼拝堂のフレスコ画制作に参加しました。
1482年頃の《春(プリマヴェーラ)》において、ボッティチェッリは優雅さと透明感に満ちた人物表現による独自の絵画言語を確立します。さらに《ヴィーナスの誕生》は、古代以来となる「聖書に基づかない裸婦像」として美術史上特筆される作品であり、彼の芸術を通じて、当時フィレンツェに花開いていたヒューマニズム(人文主義)が見事な表現者を見出したことを示しています。
宗教的危機と晩年
1490年代、フィレンツェは深刻な政治的・宗教的危機に見舞われます。説教師ジロラモ・サヴォナローラが「最後の審判」を予告しながらメディチ家を市から追放すると、ボッティチェッリもその影響を大きく受けました。この激動の時期に、彼はダンテの《神曲》(1490年頃)の挿絵制作に取り組んでいます。そして晩年の《神秘の降誕》は、画家自身の精神的な遺言とも称される作品です。
ボッティチェッリは1510年5月17日、フィレンツェで生涯を閉じました。ルネサンスのヒューマニズムを体現した大芸術家として、その名声は今日まで色褪せることがありません。
1445年3月1日頃 – 1510年5月17日
職業
画家