歴史上の人物

エリアス・アギーレ・ロメロ――ペルー海軍の英雄、「ワスカル」と運命を共にした男

エリアス・アギーレ・ロメロ(Elias Aguirre Romero)は、1843年、ペルー北西部ランバイェケ県の都市チクラヨに、父カルロス・アギーレ、母マリア・カンデラリア・ロメロの子として生まれました。

少年期と海軍への道

11歳のときにリマへ移り、マヌエル&イシドロ・ペレス兄弟の中等学校に入学。その後、ハコボ・ロペス・カスティージャのもとで学業を続けました。1858年には海軍兵学校へ入校し、2年間の課程を修えて海軍少尉候補生となり、フリゲート艦「アマゾナス」に配属されます。

その後、ミゲル・グラウの指揮のもとヨーロッパから回航されてきた1,150トンのコルベット「ウニオン」を受領する委員会の一員も務めました。

アブタオ海戦での武功

1866年、アギーレは「ウニオン」に乗り組み、ペルー沿岸アブタオ沖で行われたスペイン艦隊との海戦に参加しました。この際の功績が認められ、中尉へ昇進するとともに、「祖国に忠勤を尽くした者」として表彰されています。

教養人としての一面と不遇の時期

広範な教養を備えた人物でもあったアギーレは、R.G.メイン艦長の著書『マゼラン海峡航行の手引』を翻訳するなど、学識の面でも高い評価を受けていました。1870年には少佐に昇進し、海軍兵学校の副校長に就任しています。

ところが1875年、彼が指揮する砲艦「チャンチャマヨ」が沈没。この喪失の責任を問われたアギーレは訴追され、除隊処分という不遇の時期を迎えることになります。

政治活動と太平洋戦争への参戦

民間に退いていた間、彼は1877年の議会選挙でシビル党(文民党)を支持し、政治活動にも足を踏み入れました。しかしチリとの戦争、すなわち太平洋戦争が勃発すると、ただちに現役へ復帰。コルベット「ウニオン」に再配属されたものの、ミゲル・グラウの要請により、まもなくモニター艦「ワスカル」の副長として転乗します。

それからの数か月間、装甲の薄さなど装備面で明らかな劣勢を抱えながらも、アギーレは「ワスカル」とともに次々と勝利を重ねていきました。

アンガモス海戦――壮絶な最期

1879年10月8日、歴史に名を刻むアンガモス沖海戦が幕を開けます。英雄的なモニター艦「ワスカル」を待ち受けていたのは、二個の敵艦隊――装甲艦「ブランコ・エンカラダ」と「ロード・コクレーン」、砲艦「コバドンガ」、コルベット「オイギンス」、さらに輸送船「マティアス・クシノ」と「ローラ」という圧倒的な戦力でした。

開戦からわずか数分後、「コクレーン」の放った一発がミゲル・グラウの命を奪い、副官のディエゴ・フェレ一等中尉も瀕死の重傷を負います。ここで艦の指揮を引き継いだのがアギーレでした。彼は直ちに「コクレーン」への衝角突撃を下令しますが、衝角は曲がってしまい、機動を完了する前に新たな砲撃を受けて、アギーレ自身も戦死。指揮権はメリトン・カルバハルに引き継がれました。

死後の顕彰

アギーレの遺骸は当初、ボリビアの港湾メヒジョーネスに埋葬されましたが、1908年以降は英雄納骨堂(クリプタ・デ・ロス・エロエス)に安置されています。グラウ提督の後を継いで艦と祖国の名誉を守ろうとしたその姿は、今日でもペルー海軍の歴史の中で高く称えられ続けているのです。