歴史上の人物

ガブリエル・アギラール・ナルバルテ|インカ王朝の復興を掲げたペルー独立運動の先駆者

ガブリエル・アギラール・ナルバルテ(Gabriel Aguilar Narvarte、1775年〜1805年)は、ペルーのワヌコ(Huánuco)に生まれた独立運動の先駆者である。父はサルバドール・アギラール、母はクララ・ナルバルテ。若くして南米各地やスペインを巡った経験の中で自由の思想を吸収し、「クスコを都とするインカ王政の復興によってペルーを解放する」という壮大な構想を抱いた。しかしその陰謀は密告により露見し、1805年12月5日、クスコの中央広場で処刑された。

生い立ちと南米大陸の旅

アギラールはごく若い頃から南米大陸の南部へ幾度も旅を重ねた。最初にチリの鉱山地帯へ赴き、続いてメンドサ、さらにはブエノスアイレスへと足を伸ばしている。これらの旅を通じて、彼は各地の社会情勢や新しい時代の空気に触れていった。

スペインでの思想的転機

その後スペインへ渡ると、アギラールは当時世に流布していた諸思想、なかでもフランス革命が掲げた自由・平等の理念を深く吸収した。こうして彼は「ペルーを解放する」という明確な目的を心に刻み、その具体的な道筋として、古都クスコを拠点とするインカ王政の復興という構想を練り上げたのである。

帰国後の活動とウバルデとの出会い

ペルーに戻ったアギラールは鉱物学に専念し、かつてインカ帝国の首都であったクスコで金鉱の探査に従事した。そこで彼は弁護士マヌエル・ウバルデ(Manuel Ubalde)と知り合う。ウバルデは、クスコ王立審問院の院長を務める准将マヌエル・ルイス・デ・カスティーリャ伯(Count Manuel Ruiz de Castilla)の法律顧問の職を解任されたばかりであった。両人は語り合ううちに意気投合し、スペインの支配に対して蜂起すべきだという認識を共有するに至った。

トゥパック・アマル2世の乱後の社会状況

トゥパック・アマル2世(Túpac Amaru II)の反乱が鎮圧された後、植民地当局はレパルティミエント(強制的な物品配分)の廃止や、コレヒミエントに代わる新たな行政制度の導入といった改革を実施していた。しかし実際には、スペイン人官吏による搾取や不正は相変わらず絶えることがなかった。こうした民衆の不満の蓄積こそが、アギラールとウバルデの構想に即座に反響を呼ぶ土壌となったのである。

計画を支えた共鳴者たち

二人の計画は、先住民の指導層のみならず、多くのメスティーソ(混血)たちからも支持を集めた。主な共鳴者は以下の通りである。

  • マヌエル・ベラルデ・アンプエロ(Manuel Velarde Ampuero):市参事会員(レヒドール)。母方の血筋を通じてインカの末裔とされる。
  • マルコス・ドンゴ(Marcos Dongo):先住民保護官を務める弁護士。
  • クシワマン(Cusihuaman):カシケ(先住民首長)。
  • ディエゴ・バランコ(Diego Barranco):聖職者。
  • ホセ・ベルナルディーノ・グティエレス(José Bernardino Gutiérrez):聖職者。サン・アンドレス病院の付属司祭。

密告による陰謀の発覚

しかし、この陰謀はマリアーノ・レチューガ(Mariano Lechuga)の密告によって崩れ去ることになった。1805年6月25日、レチューガは分離独立計画の全貌を、クスコ王立審問院の判事(オイドール)マヌエル・プラシド・ベリオサバル(Manuel Plácido Berriozabal)に通報したのである。

死刑判決と処刑

同年12月、王立審問院はアギラールとウバルデに対し、絞首刑に処すとの判決を下した。この刑罰は1805年12月5日、クスコの中央広場(アルマス広場)において執行された。その他の共謀者たちにも、それぞれ禁錮や追放といった刑が科された。

死後の名誉回復

ペルーの独立後、1823年6月6日、制憲議会は法令を発布し、ガブリエル・アギラールとマヌエル・ウバルデを「祖国に功績ある者」、すなわちペルー独立の擁護者として正式に顕彰した。二人の犠牲は、独立への道を切り開いた先駆者の行為として、今日なお記憶されている。