歴史上の人物

セシリウス・カルバートとは誰?メリーランド植民地を築いた第2代ボルティモア男爵

セシリウス・カルバート(Caecilius Calvert、第2代ボルティモア男爵、1605年8月8日 – 1675年11月30日)は、イギリスの貴族であり、北米メリーランド植民地の創設者として知られる人物です。父ジョージ・カルバート(第1代ボルティモア男爵)の死後、男爵位を継承し、国王チャールズ1世からメリーランドの勅許状を取得しました。彼自身は生涯を通じて一度も大西洋を渡りませんでしたが、本国イングランドから植民地を統治し、「宗教的寛容」に基づく運営方針は、後のアメリカにおける信教の自由の思想の源流となりました。

生い立ちと家族

カルバートは1605年8月、イングランド北部ヨークシャーのキップリン・ホールで、ジョージ・カルバートと妻アン・ミンの長男として生まれました。オックスフォード大学で学んだ後、父と同じくカトリック信仰を受け継ぎました。父ジョージは元来ジェームズ1世に仕えた政治家でしたが、カトリックへの改宗により宮廷での地位を失い、代わりに北米への植民地建設という構想に人生を捧げた人物です。

弟のレナード・カルバートは、後に初代メリーランド総督として現地統治を担うことになります。

メリーランド勅許状の取得

父ジョージは生前にメリーランドの王室勅許状の発行交渉を進めていましたが、1632年4月に死去したため、勅許状の発行を見ることはありませんでした。同年6月20日、第2代ボルティモア男爵となったセシリウスのもとに正式な勅許状が交付されます。

新しい植民地は「メリー・ランド(Maryland/マリアの地)」と名付けられ、その名はチャールズ1世の王妃であるフランス王女アンリエッタ・マリアにちなんだものでした。勅許状により、カルバート家は領主(プロプライエター)として土地の付与、法律の制定、役人の任命といった広範な統治権限を手にし、事実上の自治王国とも呼べる支配体制を確立しました。

宗教的寛容という先駆的理念

当時のイングランドでは、カトリック信徒は公職への就任を制限されるなど深刻な差別を受けていました。カルバートは、カトリックとプロテスタントが対立する時代において、植民地を繁栄させるには宗教対立の緩和が不可欠だと考えていました。

1633年11月、弟レナード率いる約140人の移民団が「アーク号」と「ダブ号」の2隻に分乗して出航し、翌1634年3月にチェサピーク湾に到着。セント・メアリーズ・シティが建設され、これがメリーランド最初の恒久的入植地となりました。移民団にはカトリック教徒だけでなく多くのプロテスタントが含まれており、当初から複数の宗派の共存を前提とした運営が行われています。

1649年には、三位一体を認めるキリスト教各派の相互寛容を定めた「メリーランド信教自由法」が植民地議会で成立しました。これは北米植民地史における最初期の信教の自由関連法であり、カルバート家の統治理念を象徴する出来事として特筆されます。

晩年と歴史的評価

カルバートは生涯イングランドに留まり、総督や代理人を通じて遠隔統治を行いました。清教徒革命(イングランド内戦)の時期には、プロテスタント勢力による乗っ取りで一時植民地の支配権を脅かされましたが、1660年の王政復古後に統治権を回復しています。1675年11月30日、ロンドンで死去し、以後もカルバート家はボルティモア男爵としてメリーランドの統治を継続しました。

セシリウス・カルバートは、現地に足を踏み入れることなく一大植民地を築き上げた稀有な指導者です。宗教的寛容に基づく統治は、多様な人々が共存する社会の在り方を先取りしたものとして高く評価されており、今日のアメリカにおける信教の自由の伝統の重要な源泉の一つとされています。メリーランド州は彼を「州の創設者」として記憶しており、州都アナポリスの州議事堂前には彼の銅像が建てられています。