アメリア・メアリー・イアハート(1897年~1937年)は、アメリカを代表する航空パイオニアです。飛行機で大西洋を横断した最初の女性であり、1937年の海上における消息不明は、今日なお解明されていない歴史の謎として残されています。
看護師としての訓練
アメリアは、母アメリア・「エイミー」・オーティス・イアハートと父サミュエル・「エドウィン」・スタントン・イアハートの娘として、1897年7月24日にカンザス州で生まれました。愛称は「ミリー」。幼い頃からリーダーシップあふれる性格で、それは妹のグレース・ムリエル(愛称「ピジ」)との関係において特に顕著でした。姉妹は当時の少女としては型破りで自由な教育を受け、屋外で思いきり遊ぶ時間をたっぷりと過ごして育ちました。
1916年にハイドパーク高校を卒業したアメリアは、映画、工学、法律、広告といった男性中心とされてきた分野で成功を収める女性たちの話に強い関心を抱いていました。1917年、第一次世界大戦中にカナダのトロントへ移ると、看護師の訓練を受け、ヨーロッパ戦線から負傷して帰還した兵士たちのボランティア看護に従事します。1918年にはトロントにもスペインかぜが流行し、彼女は献身的に看護活動を続けましたが、自身も感染してしまいます。回復までには約1年を要し、その療養期間中に多くの書物を読みふけり、機械工学の勉強にも打ち込みました。
ニータ・スヌークによる操縦訓練
1920年、カリフォルニア州ロングビーチの飛行場を父とともに訪れたアメリアは、パイロットのフランク・ホークによる初めてのフライトを体験します。この瞬間が、彼女の人生を根本から変えることになりました。後に彼女は「空にいるとき、自分は飛ぶべきだということが突然わかった」と語っています。
さまざまな仕事に従事して資金を貯めたアメリアは、同じく航空界の先駆者であるアニタ・「ニータ」・スヌークのもとで、1921年1月から操縦訓練を開始しました。他のパイロットからどう見られるかという不安を抱えながらも、夢を実現したいという強い意志を胸に、ひたむきに努力を重ねます。その半年後には黄色い複葉機を購入し、「キャナリー」と名付けました。1922年10月22日には高度4,300メートルへの到達に成功し、当時の女性飛行家としての新記録を樹立。さらに1923年5月15日には、パイロット免許を取得した史上16人目の女性となったのです。
飛行機で大西洋を単独横断した最初の女性
1927年、チャールズ・リンドバーグが大西洋横断飛行に成功すると、社交界の名士エイミー・フィップス・ゲストは、女性による同様の飛行を支援したいと申し出ました。こうして白羽の矢が立ったのがアメリアでした。1928年、彼女は2人の乗員とともに大西洋横断飛行へ出発します。この飛行は彼女にとって未経験の領域であり、実際の操縦こそ担当していませんでしたが、この挑戦によってアメリアは一躍世界的な名声を手に入れます。
帰国後、アメリアは雑誌『コスモポリタン』の職を引き受け、航空の魅力やそこで果たす女性の役割について発信する場として活用しました。また、チャールズ・リンドバーグとともに大陸横断航空会社(トランスコンチネンタル・エア・トランスポート)を代表し、ニューヨーク~ワシントン間の路線開設にも携わっています。自らの飛行への挑戦も止めることなく、北米を往復した最初の女性となりました。そして1932年5月20日、アメリアはニューファンドランド・ラブラドールから出発し、14時間56分に及ぶ単独飛行の末に北アイルランドへ到着。飛行機で大西洋を単独横断した史上初の女性となったのです。
女性の速度記録と距離記録の更新
1935年1月、アメリアはホノルルからオークランドへの単独飛行に成功しました。これはそれまでチームでしか試みられたことのない航路であり、彼女はこれを成し遂げた最初の人物となりました。続いてロサンゼルスからメキシコシティへ、さらにメキシコシティからニューヨークへの単独飛行も達成しています。長距離レースにも積極的に出場し、女性の速度記録や距離記録を次々と塗り替えていきました。
1937年、アメリアは航法士フレッド・ヌーナンとともに、双発機ロッキード・エレクトラで東回りの世界一周飛行に挑戦しました。しかし、ニューギニア島のラエを最後に目撃された後、同年7月2日に海上で消息を絶ちます。アメリカ政府は約4か月にわたり50機近くの航空機を出動させて捜索を行いましたが、ついに彼女を見つけることはできませんでした。