歴史物語

ナチス・ドイツの医療犯罪――シュトラスブルク帝国大学で行われた人体実験

1944年11月23日、ヨーロッパ中から最も優れた頭脳を集めようというナチスの壮大な夢、「大欧州大学」構想は、その幕を閉じました。この日、アメリカ軍がライヒ大学(帝国大学)の所在地であるシュトラスブルク市に入城し、ナチス・ドイツの数ある傲慢なプロジェクトの一つに終止符が打たれたのです。

この構想が始動したのは第二次世界大戦中のことでした。その目的は、ドイツ的な科学と思想を西方に広げることにありました。しかし同時に、このエリート大学は、医学研究に関わる数多くの犯罪の舞台ともなったのです。

動物保護法と「人間以下」とされた者たち

1933年3月21日、ドイツ最初の二つの強制収容所が開所されたのと同じ日に、ナチスの代議機関と化した国会(ライヒスターク)は動物保護法を可決しました。この法律により、医学研究室におけるあらゆる科学的目的のための動物実験(生体解剖)は禁止されました。そして、ウンターメンシュ(Untermensch=「人間以下」)とみなされた人々が、医学研究において実験動物の座を奪い取ることになったのです。

数千件に及ぶナチスの犯罪について行われた無数の裁判や尋問において、被告人たちの答えは常に同じでした。「私は命令に従っただけだ」。第二次世界大戦後、シュトラスブルク大学での犯罪の責任者たちも同様の態度を示しました。しかし今日では、関連文書の発見により、こうした実験の実施を自ら求めたのは、ほかならぬ大学の医師たち自身であったことが明らかになっています。

ナチス・ドイツの医療犯罪――シュトラスブルク帝国大学で行われた人体実験

医学部で起きたことの最終的な責任者は、学部長のヨハネス・シュタイン博士でした。戦後も活動を続けた人物の犯罪を可能な限り隠蔽しようとした当時の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の方針により、インターネット上にはシュタイン博士の公開写真は存在しません(2019年12月時点での調査)。

ライヒ大学の創立

1941年11月23日――連合軍による解放のちょうど3年前のこの日、かつてフランス領アルザス地方であったシュトラスブルクにおいて、ライヒ大学の開校式典が華やかに執り行われました。フランスの敗北後、この地は再びドイツの一部となっていたのです。

ナチス・ドイツの医療犯罪――シュトラスブルク帝国大学で行われた人体実験

開校式典には800名の招待客が出席し、国防軍(ヴェーアマハト)の連隊が、この地の新しい支配者の旗を掲げて行進しました。この大学は第二帝政時代にも軍事パレードの舞台となりましたが、今回は古い帝国の旗が撤去され、第三帝国の旗に道を譲りました。

式典で最も目立った来賓は、アルザス大管区指導者(ガウライター)のロベルト・ワーグナーでした。彼はナチス・ドイツの他のどのガウライターよりも大きな権力を持ち、それを躊躇なく行使したことから「アルザスの屠殺者」と呼ばれていました。戦後、グルス強制収容所における464名のユダヤ人虐殺の罪で死刑判決を受け、処刑されています。

ナチス・ドイツの医療犯罪――シュトラスブルク帝国大学で行われた人体実験

ワーグナーが大学開校を宣言した演壇のそばには、71名の教授が陪席していました。彼らこそが、新しい大学にゲルマン的かつ国家社会主義的な顔を与える存在でした。その一人が、医学部の解剖学分野を担当することになるアウグスト・ヒルトです。

まさにその日、ヒルトは、ドイツ人のアーリア人的過去を科学的に調査することを任務とする親衛隊(SS)傘下の組織「アーネンエルベ」の幹部、ヴォルフラム・ジーファースと出会います。ジーファースはすでにヒルトの研究について耳にしていました。この日、二人は犯罪的な協力関係を結んだのです。

非人道的な実験の実態

わずか3ヶ月後の1942年2月9日、アウグスト・ヒルトはジーファース局長に具体的な研究計画書を提出しました。「我々は事実上あらゆる人種と民族の膨大な頭蓋骨コレクションを保有している。しかしユダヤ人の頭蓋骨はあまりに少なく、研究から決定的な成果を得ることができない。東部での戦争が今、この不足に対する解決策を提示してくれる」

この瞬間こそ、シュトラスブルク医科大学が非人道的な実験の中心地へと変貌を遂げた瞬間でした。学部長ヨハネス・シュタインは、常に軍服姿で講義を行う唯一の教授であり、大学最大の学部を統括していました。学生の半数近くが医学を専攻していたのです。

当時の医学部には最新鋭の技術が導入されていました。生物医学研究のためには電子顕微鏡さえ要求されましたが、これはナチス・ドイツ全土に12台しか存在しない貴重な装置でした。教員は28名の教授陣で構成され、その知識と政治的忠誠心の両面で国内屈指の陣容を誇っていました。

解剖学主任のアウグスト・ヒルトは、同僚の多くと同じく1933年からのSS隊員でした。シュトラスブルクに赴任する前から、ヒルトはマスタードガスを用いた実験で知られていました。その名声とアーネンエルベとの繋がりにより、ヒルトはほどなくベルリンから人体実験の許可を取得します。

強制収容所ナッツヴァイラー=ストゥートホフ

シュトラスブルクの南数キロメートルに位置する強制収容所ナッツヴァイラー=ストゥートホフは、シュトラスブルク医科大学における犠牲者たちの出発点となりました。ここはフランス領内に存在した唯一の強制収容所です。アウグスト・ヒルト自身が何度もここを訪れ、マスタードガス実験の被験者となる犠牲者を選別しました。

ナチス・ドイツの医療犯罪――シュトラスブルク帝国大学で行われた人体実験

ヒルトは1942年11月12日に実験を開始しました。実験内容は、15名の囚人の脇の下にマスタードガスの液滴を噴霧し、解毒剤を投与した後、数日間にわたってその反応を観察するというものでした。

マスタードガス実験に加えて、ヒルトはユダヤ人解剖標本コレクションの拡充の好機をも捉えました。そこで1942年11月2日、アーネンエルベは、ナッツヴァイラー収容所にはユダヤ人囚人がいないため、アウシュヴィッツからユダヤ人囚人の移送を要請しています。

ヒルト以外にも、二人の大学教授がアーネンエルベから人体実験の許可を受けていました。一人はチフスおよび腸チフスの研究を行っていたウイルス学者のオイゲン・ハーゲル、もう一人はホスゲンガスが人体に及ぼす影響を研究していた医師のオットー・ヴィッテンバッハです。

ガス室の建設とヴィッテンバッハの実験

1943年、ヒルトの実験のために、収容所のバラックの地下にガス室が建設されました。ところが、建設が完了した時点で、ヒルト側の準備はまだ整っていませんでした。ヒルトはこのガス室をユダヤ人骨格標本獲得計画の一環として使用するつもりでしたが、そのためには死体を搬送するエレベーターと、遺体の組織を溶解する手段が必要だったのです。

手間取るヒルトに代わり、ガス室の「お披露目」を行ったのはヴィッテンバッハでした。彼はこの施設を使ってホスゲンガスの解毒剤を試験しました。この実験では、囚人たちはまずヴィッテンバッハが開発した解毒剤を投与され、その後ガス室に入れられました。囚人たちは、室内に備え付けられたホスゲンガスの入った小瓶を自ら割らなければなりませんでした。そして20分から30分もの間、ガスの中で耐え抜くことを強いられたのです。どの実験でもそうであるように、解毒剤を投与されない対照群も設定されていました。

1943年、教授陣の40%が召集されたため、ヒルトはシュトラスブルク医科大学の学部長に昇進します。彼の研究は戦争遂行上極めて重要であるとみなされ、学術職に留まることが認められました。この頃には、ヒルトのユダヤ人骨格標本計画はすでに具体化していました。アーネンエルベの人類学者ブルーノ・ベーガーがアウシュヴィッツ強制収容所に赴き、計画に使用される囚人を選別したのもこの時期です。

86名の犠牲者

1943年8月、86名の囚人がアウシュヴィッツからナッツヴァイラー収容所に到着しました。占領下ポーランドからの移送中にさらに3名が死亡しています。生存者たちはナッツヴァイラーでナチス・ドイツの職員によって殺害されました。8月11日の時点で、29名の女性と57名の男性が収容所のガス室で青酸(プルシック酸)によりガス殺されたのです。まだ体温の残る死体はトラックでライヒ大学医学部へ移送され、地下室に保管されました。

しかし、ヒルトの計画が完遂されることはありませんでした。死体は戦後、医学部の地下室で解剖された状態で発見されました。

なお1943年3月17日には、軍事目的の生物医学研究を担う「H部門」の会合がシュトラスブルクで開かれ、ヒルトとヴィッテンバッハは人体実験の結果をジーファースおよび学部長シュタインに報告しています。

ライヒ大学の終焉

1944年6月6日の連合軍上陸作戦以降、シュトラスブルク陥落は時間の問題となりました。この時期、多くの学生が召集され、教員たちは連合軍の到来を見越して家族の避難を進めていました。1944年8月3日、爆弾がシュトラスブルクに降り注ぎ始めます。街の解放が訪れるのは、同年11月23日のことでした。

戦後、ライヒ大学の教授たちのうち、法の裁きを受けた者は一人もいませんでした。彼らの大多数はキャリアを立て直し、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)で尊敬される専門家として余生を送ったのです。