現代では、ほとんどすべての家庭にテレビがあります。デジタルプラットフォームやケーブルテレビは、誰もが楽しめる数百ものチャンネルを提供し、リモコン片手に番組を次々と切り替えるのが日常です。しかし、ご存じでしたか?実は、両世界大戦の間の時代を生きた祖父母たちも、ガラススクリーンの恩恵を味わうことができたのです。
ポーランド・テレビの起源は1952年ではない
ポーランドにおけるテレビの歴史は、一般に1952年に始まったとされています。この年、実験的なテレビスタジオが設立され、10月25日に最初の30分番組が放送されました。
しかし、「第11の芸術」とも呼ばれるテレビのルーツを探せば、そのずっと前にさかのぼります。すでに1929年、ステファン・マンチャルスキー技師が、有線および無線によるテレビ映像伝送方式の特許(特許第11084号)を取得していたのです。
1936年製テレフンケンのテレビ受像機。戦前ポーランドでは、こうした技術の結晶に対して5,000ズウォティを支払う必要がありました(写真:Eirik Newth、ライセンス CC BY-SA 2.0)。
簡単に言えば、この技師は送信機とテレビ受信機を組み上げました。画面の対角線はわずか数センチ、映像も鮮明とは言い難いものでしたが、出発点としては十分な成果でした。
この発明は郵政電信省(MPiT)の注目を集め、特許は同省によって買い取られました。装置は1929年5月16日から25日にかけて、ポズナンで開催された全国総合博覧会の郵政電信省パビリオンで公開されたのです。
その2年後には、カトヴィツェでの実験が続きました。地元のポーランドラジオ局で、エドワルト・トヴァルトとフリデリク・ディルナが、テレビ信号を送信するための装置を構築しました。
ところが、このときも画質には大きな不満が残りました。さらに悪いことに、大恐慌が猛威を振るう時代であり、さらなる研究に十分な資金を投じるスポンサーは現れず、プロジェクトは自然消滅してしまいます。
特許から実用機へ
真の転換点が訪れたのは1935年です。ワルシャワの国立電気通信研究所にテレビ部門が設立され、レスワフ・ケンジェルスキ技師がその責任者に就任しました。
実験の成果を受けて、1936年には映画フィルムを放送できる装置の製作が始まりました。これは実験テレビ局で使用されることが想定されていました。
早くも1938年には、テレビ信号を送信するためのアンテナがワルシャワのプルデンシャルビル屋上に設置されました(1939年の写真にも鮮明に写っています)。
一方、ポーランドラジオも手をこまねいていたわけではありません。1937年、ウワディスワフ・ツェトネル氏を責任者とするテレビ部門が設立されました。その任務の一つは、首都に建設予定のテレビ局向けの映像・音声送信機の製作でした。
次は送信アンテナを建設する段階です。その場所に選ばれたのは、プルデンシャル保険会社のワルシャワ支店ビルでした。1938年6月8日付の『ディエンニク・ポランニ』紙は、この工事について次のように報じています。
ナポレオン広場にそびえるワルシャワの17階建て超高層ビル[原文ママ。実際は16階建て――訳注]の屋上で、数週間にわたり作業員たちが鉄塔の設置作業に取り組んでいる。それはポーランドラジオ初のテレビ局となる、高さ28メートルの塔である。
テレビ室はすでにビル最上階に組み上がっており、送信装置も試運転済みだ。テレビ局はいつでも開始できる状態にある。
ただし、テレビスタジオと受信機がまだ完成していないため、開局の時期は延期されている(……)。
そこに戦争がやって来る……そしてテレビ
実際、最初の放送までには数か月を要しました。放送は10月5日に行われ、映画『バルバラ・ラジヴィウヴナ』と、人気歌手ミェチスワフ・フォッグによる短い歌唱披露が流されました。テレビ信号の到達範囲は約20キロメートル。あくまで試験放送であり、当時のワルシャワで個人用テレビを所有している者は、おそらく一人もいませんでした。
これには無理もありません。「電気の目」付きテレスーパーヘテロダイン(当時のテレビ受像機の名称)は、1938年時点で約5,000ズウォティもしたのです。比較のために挙げると、家族を養うポーランド軍大尉の月給(基本給)は400ズウォティ、准将で1,000ズウォティ、元帥で3,000ズウォティでした。
しかも忘れてならないのは、1926年以降、将校の給与は国内でも最高水準にあったという事実です。5,000ズウォティあれば、程度の良いポーランド製フィアット508が購入でき、さらに2,500ズウォティ余りを足せば、1938年型シボレーの新車まで手に入ったのです。
しかし、誰かが「電気の目」付きテレスーパーヘテロダインに大金を投じようと決断する前に、まず恒常的な放送を開始しなければなりませんでした。
YMCA会館で開催された第2回ラジオ博覧会のための、ポーランドテレビの仮設「移動スタジオ」。ポーランド初の公式テレビ番組は、ここから放送されました。
最初の公式放送は、1939年8月26日、第2回ラジオ博覧会の開会式で行われました。プシェミスワフ・センチュクは論文「TVPの忘れられた記念日」の中で、次のように記しています。
女優イレナ・ザレスカの演技と、ポーランドラジオがこの機会のために特別に制作した宣伝映画が放映された。視聴できたのはさらに3か所、ズィエルナ通りのポーランドラジオ本社、ラトゥショヴァ11番地の国立電気通信研究所、そしてポズナンスカ通りの電信電話事務所だった。おかげでこの放送は、公衆に向けて開かれた性格を持つことになった。
しかし、迫りくる戦争の影により、1940年に開始される予定だった定期放送はついに実現しませんでした。なお、プルデンシャルビルと屋上のアンテナ塔は、その後の歴史においても重要な役割を果たします。ワルシャワ蜂起中の1944年8月1日、遠く離れた市街の隅からも見える位置に、白赤のポーランド国旗が掲げられたのは、まさしくこの場所だったのです。
参考文献
- 「Dziennik Ostrowski」1938年9月10日号
- 「Dziennik Poranny(モーニング・ダイアリー)」1938年6月8日号
- 『簡易統計年鑑』1939年版
- 「ワルシャワの“てっぺん”に旗を掲げよ!」、「TVN Warszawa」2009年8月1日
- Alina Karwowska-Lamparska「ラジオとテレビの発展」、Telekomunikacja i Techniki Informacyjne 2003年第3-4号
- Alina Karwowska-Lamparska「電気通信研究所――ポーランド・テレビの揺籃」、Telekomunikacja i Techniki Informacyjne 2009年第3-4号
- Przemysław Semczuk「TVPの忘れられた記念日」、「Newsweek Polska」2009年第35号