ソ連からの脱出──シコルスキ・マイスキ協定とアンデルス軍
1941年7月30日、ソ連奥深くへ強制移住させられていた数万のポーランド人に、一筋の光が差し込みました。ロンドンのポーランド亡命政府とソ連の間で結ばれたシコルスキ・マイスキ協定により、いわゆる「大赦」が発令され、抑留者・強制移住者らが釈放されたのです。この協定はイギリスの仲介により実現し、対独戦での連合国結成への重要な一歩ともなりました。
8月12日、ソ連最高会議幹部会はポーランド人捕虜、収容所囚人、そして1939年9月17日の赤軍侵攻以降にソ連領へ組み込まれた東部国境地帯(クリェシー)出身の抑圧・移住者全員に対する大赦を布告しました。対象者は当初38万人以上とされましたが、独ソ戦の戦況がソ連有利に傾くにつれ、釈放のペースは鈍化しました。
釈放されたポーランド人の多くは、中東方面で編成されていたアンデルス軍(第2軍団)のもとへ向かいました。最終的にソ連から脱出したのは11万人以上にのぼり、うち軍人が約4万人、民間人が約7万7千人(子ども約2万人含む)でした。
日本による「プロローグ」──1920年代、シベリア孤児の救出
この大規模避難の20年ほど前、すでに似たようなドラマがありました。ロシア内戦下のシベリアで孤児となっていたポーランドの子どもたち約760名が、アンナ・ビエルキェヴィチらの尽力と日本軍の協力により、1920〜22年にかけて日本へ一時避難し、その後ポーランドへ帰還したのです。ビエルキェヴィチはシベリア鉄道技師の娘で、ヤクーツクなどで孤児を探し出し、東京の日本陸軍省へ支援を要請。日本は当時シベリアに出兵中だったこともあり、快く応じました。この知られざるエピソードは、後の大規模避難の「序章」とも言えます。
イランへの過酷な旅路
アンデルス軍とともに南下した難民たちは、1942年3月から9月にかけて、トルクメニスタン経由でカスピ海南岸のパフレヴィ(現バンダレ・アンザリ)へ上陸しました。強制収容所での極限の生活から解放されたばかりの人々は、栄養失調、赤痢、チフス、マラリアなどで衰弱しきっており、この避難の過程で2,000人以上が命を落としました。
生存者の一人、ヘレナ・ニキエルは当時をこう振り返ります。「痩せ細り、汚れ、シラミだらけで、背負い袋を抱えて船を降りた。母はミシンを背負い、兄と私はビスケットの袋と溶けたラードの鍋を抱えていた。……深い砂浜をテント村まで2〜3キロ歩いたが、最悪の状況が終わった喜びを感じる力さえ残っていなかった」
パフレヴィで検疫・消毒を受けた後、難民たちはテヘランやイスファハンなどへ移送されました。テヘランでは市民がリンゴや菓子を差し入れるなど温かい歓迎を受け、イスファハンは「ポーランドの子どもたちの街」と呼ばれる存在になりました。ここには約2,590人の孤児が収容され、修道女たちの献身的なケアのもと、学校・幼稚園・療養所が整備されました。
イスファハン──「ポーランドの子どもたちの街」
イスファハンのキャンプでは、シラミや疥癬(かいせん)との闘いが日常でした。モニカ・アレクサンドロヴィチ修道女は「洗濯も煮沸も効かず、機械的に駆除するほかなかった。絶望的な戦いだった」と記しています。しかし、ポーランド亡命政府代表部の資金援助が始まると、スタッフが増員され、食事・教育・医療が劇的に改善。子どもたちは健康を取り戻し、気候にも適応していきました。
現地のアルメニア人キリスト教徒やペルシャ人との関係は概ね良好でした。ミハウ・ヴィルニェヴィチ神父は「ペルシャ人はポーランド人、特に女性に非常に親切だった。イギリス人とは違い、握手をして対等に接してくれた」と証言しています。一方で、文化の差から生じる摩擦や、ラマダン期間中の宗教的熱狂に恐怖を感じたという声もありました。テヘランでは、豪華なショーウィンドウのすぐ脇で一家が路上で息絶える光景が、難民たちに強い衝撃を与えました。
アフリカへ──「ポーランドのアフリカ」の誕生
イランの情勢が不安定化する中、イギリスは民間人難民のさらなる疎開を決定。アンデルス軍はパレスチナへ、民間人はインドとイギリス領東アフリカへ分散移送されました。
1942年7月、ロンドン亡命政府はタンガニーカ(現タンザニア)、ケニア、ウガンダの総督と協定を結び、北ローデシア・南ローデシア、南アフリカ連邦へも受け入れが広がりました。インドのカラチ港(現パキスタン)を経由してアフリカ大陸へ向かった難民は、1944年末までに約1万4千人にのぼりました。当時、彼らは東アフリカ最大のヨーロッパ系少数派でした。
タンガニーカにはテンゲル、コンドア、イフンダ、キドゥガラの4ヶ所、ウガンダにはマシンディとコジャの2ヶ所に定住地が設けられ、さらにモロゴロ、キゴマ、ダルエスサラーム、イリンガ、トサマガンガなどに通過キャンプが設置されました。最大のテンゲル集落には約5,000人が暮らし、中等学校、孤児院、スカウト、サッカーチーム、劇団、合唱団などが活動。アフリカの太陽の下でキュウリ、トマト、ヒマワリを栽培し、ポーランドの祝祭日を厳かに祝うなど、故郷の生活を再現しようと努めました。
生活環境は場所により大きく異なりました。コンドアでは403棟の土壁バラックで過酷な暮らしを強いられた一方、イフンダでは100棟のレンガ造り住宅に専用の食堂・洗濯場・倉庫が整備されていました。アフリカのキャンプを経験した子どもたちは約8,000人に上ると推定され、多くは大人の不安を知らない「幸福で魔法のような子ども時代」を過ごしました(ドキュメンタリー映画『私の幼年時代のアフリカ』監督:エヴァ・ミシェヴィチ参照)。
インド──「善きマハラジャ」とポーランド子どもキャンプ
イランからインドへ向かったグループもあり、1943年にはバラチャディとヴァリヴァデの2ヶ所で5,500人以上のポーランド児童が保護されました。
バラチャディのキャンプ設立を主導したのは、インド西部ナワナガル藩の藩主(マハラジャ)ジャム・サーヒブ・ディグヴィジャイシンジでした。彼は1920年代にスイスでパデレフスキと面識があり、ポーランドへ深いシンパシーを抱いていました。自らの別荘近くの土地を提供し、インド諸侯院の資金でキャンプ建設を支援、自ら頻繁に視察に訪れて子どもたちと交流しました。
シコルスキ首相が「お礼に何が望みか」と尋ねた際、彼は「解放されたポーランドで、ワルシャワの通りの一つに私の名を冠してほしい」と答えたと伝えられます。その願いは叶い、現在ワルシャワのオホタ区には「善きマハラジャ広場」と記念碑が建っています。
戦後、インドのキャンプでは神父フランチシェク・プタとイギリス軍ジェフリー・クラーク中佐の尽力で、マハラジャの名による裁判所認証の集団養子縁組が行われ、子どもたちの法的保護が図られました。バラチャディは終戦後1年ほど存続し、その後ヴァリヴァデの大規模キャンプと統合。一部はインドに残り小さなポーランド人コミュニティを形成し、大半は世界各地へ散っていきました。
戦後──帰還か、亡命か
戦後、モスクワの傀儡政権(ポーランド人民共和国)を樹立した共産主義者たちは、難民の早期送還を強く迫りました。しかし難民の多くは、ソ連式の体制下の祖国へ戻ることを拒み、モスクワの意向を受けた行政を信用していませんでした。
アフリカの難民約1万9千人のうち、ポーランド人民共和国へ帰還を選んだのはわずか3,800人(約20%)でした。残りは国連資金で運営される戦後キャンプに留まり、1949年には西側で戦ったポーランド軍人家族との再会事業により、約9,500人がイギリスへ渡りました。その他はアメリカ、カナダ、オーストラリア、フランスなどへ移住しました。
コジャとテンゲルの集落は1952年まで機能し続け、その後も数百人がタンザニアに残留。ソ連からアフリカへ渡った最後のポーランド難民、エドヴァルト・ヴォイトヴィチは2015年にテンゲルで亡くなり、同地に眠っています。現在、テンゲル(アルーシャから数キロ)には小さな博物館と記念碑、そしてポーランド難民の墓地が、彼らの足跡を今に伝えています。
参考文献・出典
- Persia in the memories of Polish refugees, Szlaki Tułaczy.pl, accessed 2021-10-09.
- Polish exiles from World War II - Poland in Tanzania, Gov.pl, accessed 2021-10-09.
- Polish orphans in India - Soviet repressions, Information Center on the Victims of World War II, accessed 2021-10-09.