ローマ市内、パラティーノの丘とアウェンティーノの丘に挟まれた谷間には、古代帝国最大級の名所の一つ、キルクス・マクシムス(大競技場)の遺構が今も残されています。
キルクス・マクシムスは、ギリシャのヒッポドローム(競馬場)に相当するローマの施設です。何世紀にもわたって拡張が繰り返され、サーカス、すなわち大衆娯楽のための建築の象徴となりました。最終的な姿は全長544メートル、幅129メートルに及び、最大で25万人もの観客を収容できたとされ、一部の資料では38万人に達したともいわれています。パラティーノとアウェンティーノの丘に囲まれたこの谷は、市最古の地域に位置し、きわめて恵まれた地形にあったため、太古の昔からローマ最古の祭典に伴う馬による競走の舞台となってきました。
キルクス・マクシムスは、数世紀前の驚異的な建造物のほんの一例にすぎません。カンボジアのアンコール・ワット、イスタンブールのハギア・ソフィア、パリのルーヴル美術館の秘密に迫るドキュメンタリーシリーズ『Ancient Superstructures(古代の巨大建造物)』もぜひご覧ください。これらの建築の驚異は何世紀にもわたって研究されてきましたが、今なお多くの謎を秘めています。同シリーズはPolsat Viasat Historyチャンネルで放送されます。初回放送:12月6日(月)からの平日19時55分。
競技場の発展
最初の戦車競走は、タルクィニウス・プリスクス王(老タルクィニウス)の治世、紀元前600年頃に行われたと考えられています。この王は、最初の移動式の木造建築を築いた人物でもあると伝えられています。最初の恒久的な建造物の出現は紀元前329年にさかのぼります。このとき出走馬を待機させる厩舎(カルケレス)が建てられ、紀元前174年には煉瓦造りのものへと建て替えられました。
ここで一つの疑問が浮かびます。なぜ紀元前329年以前には、後の競技場となるこの場所に恒久的な建造物の記録がないのでしょうか。おそらくこの谷は農地として耕作され、実際に作物が収穫されていたと考えられます。その証拠となるのが、村の神々を祀る最古の聖域の存在です。例えば、穀倉の中の穀物を見守るローマの神コンススの祭壇などが挙げられます。

キルクス・マクシムスの復元図(作者:カタリナ・フーバー)
歴代の支配者たちは競技場の拡張を続けました。ポンペイウスの時代には、観客と競技エリアを隔てる柵が設けられました。ところが紀元前55年頃、暴れだした20頭余りのゾウが柵に体当たりし、観客たちに大混乱をもたらしたのです。この事件を受けて、ユリウス・カエサルの治世にキルクス・マクシムスは大改修を施されました。トラックは拡幅され、トラックと観客席の間には水路が設けられました。これは同種の事故を防ぐとともに、排水システムとしても重要な役割を果たしました。その後も長年にわたり観客席の近代化が進められ、「セクター」やボックス席に区分され、身分階層ごとに異なる場所から興行を観覧できるようになりました。すべては、民衆が最高の環境で祝祭を楽しめるようにするためだったのです。
ローマの祭典「ルディ」
競技場は、ローマの宗教的祝日に関連する公開競技会ルディ(ludi)を開催する、ローマ最大の会場となりました。これらの定期的な催しは、富裕なローマ人やローマ国家がローマ市民のために資金を出して開催するものであり、主催者はしばしばそれによって政治的支持を得ました。ほとんどの祭典は毎年開催されましたが、私たちがギリシャで知る競技会とは似ても似つかないものでした。それは巨大で、豪華で、絢爛たるスペクタクルでした。また宗教との結びつきもそれほど強くなく、むしろ政治的な祝賀行事としての性格が強かったのです。

南側観客席から望むキルクス・マクシムス
一辺が丸みを帯びた長方形の平面を持つキルクス・マクシムスは、戦車競走に適した構造をしていました。その圧倒的な規模に加え、スピナ(spina)と呼ばれる、像や祭壇、装飾要素を備えた細長い低い壁で仕切られた専用トラックが設けられていたほか、観客は走行周回数を確認することもできました。どのようにしてか。両端のスピナにはそれぞれ3本の柱が立てられ、7つの物体が置かれていました。片側には卵、もう片側にはイルカの像です。御者が一周するごとに、その物体が一つずつ取り除かれていったのです。では、競走はどのようなものだったのでしょうか。
精鋭たちの戦い ― 戦車競走
何世紀にもわたり、このアレーナは主に二頭立て(ビガ)と四頭立て(クアドリガ)の戦車競走に使われ、のちには三頭立てや六頭立ての競走も行われるようになりました。興味深いことに、シカが引く戦車による競争が行われた例さえあるといいます。
一日に最大24の競走が開催されることもありました。御者たちが走破すべき距離は一定ではなく、5周のときもあれば7周のときもありました。最も一般的だったのは、4つの色分けされたチームが同時に競う形式です。戦車、馬具、御者の装束は、所属に応じて白、赤、緑、青のいずれかで色分けされていました。観客は勝者に賭けることができ、中には全財産を賭け金につぎ込む者もいました。おそらくそのためこそ、この娯楽はローマの知識人たちから批判されたのでしょう。とはいえ、ローマの民衆がこのような娯楽を心から愛していたことは疑いようがありません。社会的な身分のいかんを問わず、です。

出発の合図を聞いた御者(アウリガ)は鞭を手に取り、それで馬を加速させた。
話を競走に戻しましょう。出発の合図を聞いた御者――アウリガ(auriga)――は鞭を手に取り、それを使って馬を加速させました。戦車が出す速度はときに凄まじく、事故も頻繁に起こりました。しかし、こうした事態にもアウリガは備えていました。頭にはヘルメットに似た帽子をかぶり、腰のベルトには湾曲したナイフを差していたのです。危険が迫った際には、このナイフで手綱を切り離しました。それでもなお、多くの競走が人や動物の死によって終わったといいます。
当初、戦車の御者を務めていたのは奴隷でしたが、やがてこうした興行が名声と敬意をもたらすことが分かるようになると、貴族の家系出身者たちが御者として登場するようになりました。皇帝自身がアウリガの役割を担った例さえあります。悪名高いコンモドゥス帝もその一人です。人気と莫大な賞金のためなら何でもする――それは古代ローマだけでなく、現代も同じなのかもしれません。
娯楽と悲劇の場所
キルクス・マクシムスが最も多く使用されたのは戦車競走であることは、すでに述べた通りです。しかしここは剣闘士(グラディアトル)の試合の舞台でもあり、ウェナティオ(venatio)と呼ばれる野生動物の狩猟・殺戮の興行、さらには「ギリシャ式競技」、すなわち陸上競技大会の会場でもありました。伝説によれば、あのサビニの女たちの略奪もここで行われたといいます。
この建造物は、さまざまな事故や災害にも見舞われました。大火に襲われたのは少なくとも3回、西暦36年、64年、そして100年頃です。このため、クラウディウス帝の治世には、競技場の構造のほぼ全体が木造から石造へと改められました。競技場は洪水の被害にも遭っており、可能な限り再建が試みられました。なかには非常に予想外で大掛かりな修復工事もありました。例えばディオクレティアヌス帝が行った修復は、観客席の崩落で約1万3千人が死亡したという痛ましい事故を受けたものです。
キルクス・マクシムスは6世紀までローマの人々に親しまれました。最後の戦車競走が行われたのは549年のことです。今日、観光客が目にできるのは、かつての偉容を物語る遺構のみとなっています。
参考文献:
- https://imperiumromanum.pl/kultura/architektura-rzymska/budowle-rzymskie/circus-maximus/(2021年11月29日閲覧)
- ヴィェスワフ・コンラト・オステルロフ『スポーツの歴史』ワルシャワ、1976年
- アメリカ・ローマ文化研究所『Circus Maximus - Ancient Rome Live』
- https://www.wilanow-palac.pl/rozrywka_w_starozytnym_rzymie.html(2021年11月29日閲覧)