伝説と史実の間に揺れる英雄
十一月蜂起(1830〜31年)の失敗から5年後、アダム・ミツキェヴィチは、蜂起部隊を率いた英雄的な女性エミリア・プラターを題材に詩「大佐の死」を書いた。しかし史実のエミリアは大佐ではなく、森の小屋で傷がもとで亡くなったわけでもない。それでも彼女は実際に蜂起に参加し、名誉階級である大尉の称号まで授かった人物だった。体は華奢で健康にも恵まれなかったが、彼女は勇敢に戦乱の過酷さに耐え抜いたのである。
プラテロヴナ(プラター家の娘)については、母と叔父に育てられたことが知られている。場所は現在のラトビア、ディナーブルク近郊の荘園だ。しかし彼女自身は1806年11月13日、ヴィリニュスで生まれた。父はフランチシェク・クサヴェリ伯爵、母はアンナ・フォン・デア・モール。父は無頼漢で、世渡り下手なギャンブラーだった。一方の母はしっかりとした女性で、知性では夫を大きく上回っていた。結局1815年、アンナは夫のもとを去り、娘を連れて親戚のもとへ身を寄せた。
ロマン主義に育まれた魂
エミリアは当時の令嬢に典型的な教育、すなわち家庭教師による家庭教育を受けた。後の彼女の生き方を理解するには、育った時代の空気に注目することが重要だ。エミリアはロマン主義を深く吸収していった。

1831年、鎌部隊を率いるエミリア・プラター
その表れの一つが、民衆文化や田舎の儀式、そこに宿る神秘性への回帰だった。エミリアはそうした民俗的なものを熱心に収集し、書き留めている。ただしロマン主義者たちが関心を向けたのは民衆の風習であって、民衆自身の置かれた状況や苦難ではなかった。
もう一つの表れが、自由のために戦うロマンティックな英雄、苦難に耐える殉教者的な存在への憧れだった。エミリアが心を寄せ、模倣したいと願ったヒロインは、15世紀の百年戦争で重要な勝利を収めたフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルク、そしてギリシャ独立戦争の際に私財を蜂起軍に捧げ、自らも戦闘に参加したボウボリナであった。

短剣と拳銃を身につけた男装の姿で、仲間とともに蜂起軍の中での居場所を求めて旅立った。
エミリアは生涯結婚しなかった。恋愛についてはほとんど何も伝わっていない。伝説によれば、裕福なロシア人が彼女に求婚したという。同じ伝説は、プラター嬢が占領国の代表からの申し出をきっぱり拒んだとも語っている。
ポーランドのジャンヌ・ダルク
版画や絵画に描かれたプラテロヴナの姿は、長い髪をなびかせる細身の若い娘である。著書『戦う女たち』の著者イヴォナ・キェンツレルは、友人イグナツィ・ドメイコが残したエミリアの描写を次のように引用している。
「青白く、美しいとは言えないが、丸みのある愛らしい顔立ちに青い瞳。体つきは均整が取れているが力強くはない。真面目で、振る舞いは魅力的というより厳格。沈黙し、その眼差しによって自らへの敬意と礼節を求める人だった」

槍騎兵の先頭に立つエミリア・プラター
1830年11月29日、十一月蜂起が勃発した。ポーランドのジャンヌ・ダルクになるというエミリアの夢が、ついに手の届くところまで来たのだ。親族たちは彼女の道を妨げなかった。むしろ、同じく蜂起に身を投じた従兄弟たちがこの決断を支持したのである。
短剣と拳銃を携えた男装の姿で、仲間とともに、蜂起軍の中での居場所を求めて出発した。当時のリトアニアとサモギティアでは、「党」と呼ばれる小規模で武装も訓練も不十分なシュラフタ(貴族)集団が戦いに参加していた。彼らは正面切ってロシア軍に対抗する力を持たなかったため、ゲリラ戦に徹するしかなかった。エミリア・プラターも、そうした蜂起の一団に加わった一人だった。
十一月蜂起の伝説
記録によれば、プラテロヴナは蜂起のための義勇兵募集に熱心に取り組んでいたことがわかっている。しかしその先は、伝説が事実から少しずつ離れていく。エミリアが約300人規模の独自部隊を編成し、その指揮下で数々の重要な勝利を収めたという話は疑わしい。彼女はいったいどこで軍事的技能、特に指揮官としての能力を身につけたというのか?彼女が軍隊を指揮することはまずあり得なかったと見るのが自然だ。歴史資料も、伝説に語られる戦闘を裏付けてはいない。
しかし確かなのは、エミリアが兵士の過酷な生活に勇敢に耐えたという事実だ。キェンツレルはこう記している。
「エミリアは華奢で、健康状態も深刻に悪かった。指揮官も戦友も、彼女を部隊から外したがっていた。あまりにトラブルの種だったのだ。馬から落ちたり気絶したりすることも度々で、援護し、救助しなければならなかった」
だからこそ、彼女の不屈の精神と頑固さはいっそう称賛に値するものだった。決して諦めず、所属部隊が壊滅させられれば、別の部隊を目指して奮闘し続けた。
デジデリ・フワポフスキ将軍率いるポーランド軍正規部隊が、弱りゆくリトアニアの蜂起を救援するために出発すると、エミリア・プラターはすぐさま将軍のもとへ志願した。フワポフスキは勇敢な兵士に名誉大尉の称号を与えたが、同時に帰郷するよう命じた。しかし彼女はその命令に従わなかった。
それでも戦いへ
絶望的な状況に陥り、フワポフスキ軍団がプロイセン国境を越えて武装解除を余儀なくされたとき、彼女は大きな失望を味わった。リトアニアの蜂起は鎮まりつつあったが、ワルシャワはまだ自由であり、エミリアはまだ戦いたかった。農民に変装した二人の戦友とともに、彼女は首都ワルシャワへ向けて出発した。
しかし道中、彼女は重病に倒れた。ある邸宅にかくまわれたものの、手厚い看病にもかかわらず回復することなく、1831年12月23日にこの世を去った。25歳だった。コプチョフ村の墓地に埋葬され、その墓は今日まで保存されている。

司令官たちの無能さにより、ポーランド軍はオストロウェンカの戦いで敗北した。これが蜂起の転換点となり、終焉への始まりとなった
伝説はなぜ生まれたのか
伝説はしばしば実在の人物から離れ、独自の生命を得ていく。何かのために生み出されるのだ。プラテロヴナの場合、それは独立闘争の間、国民の士気を維持するためだった。武器を取るべき時にこそ彼女の姿は思い起こされ、ソ連で編成されたポーランド軍の女性大隊は彼女の名を冠した。ポーランド人民共和国の時代にも記憶されていたが、今では忘れ去られた感がある。それはある意味、常態への回帰なのかもしれない。今こそ、伝説の影に隠れた本物のエミリア・プラターを発見するときだ。
参考文献
- イヴォナ・キェンツレル『戦う女たち』Bellona出版