500万人?400万人?それとも「たった」100万人? ナチス・ドイツがアウシュヴィッツ強制収容所で残忍に殺害したのは何人か。そのうちユダヤ人は何人だったのか。数十年にわたり、ナチスの「死の工場」の犠牲者数としては誤った数字が公式に報じられてきた。では、実際はどうだったのだろうか。
収容所の誕生
1939年末、ヴロツワフの保安警察監察官アルパード・ヴィガントSS上級大佐は、シレジア地方で逮捕者が急増し刑務所が過密状態に陥っていたことを受け、新しい強制収容所の開設を提案した。彼が候補地に選んだのは、オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)のザソレ地区だった。なぜそこか。旧ポーランド軍の兵舎があり、少なくとも一部のインフラがすでに整っていたからである。
この構想は当局にすぐ受け入れられ、1940年4月27日、ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者がKLアウシュヴィッツ設立の正式命令を発した。当初はポーランド人政治犯を収容する「ごく普通の」拘置施設になるはずだった。しかし時とともに、他の国籍の人々、ソ連軍捕虜、そして最終的にはユダヤ人までもが送り込まれるようになった。
最大の絶滅拠点へ
1942年、ドイツがいわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」の実行に着手すると、アウシュヴィッツの重要性は一気に高まった。収容所は拡張され、大量殺戮のための装置(ガス室と火葬場)が整備され、ユダヤ人を乗せた移送列車が送られ始めた。彼らの運命は――死だった。
最初に連れてこられたのはオシフィエンチム近郊、ベンジン、ソスノヴィエツ、ドンブロヴァ・グルニチャの人々だった。その後ポーランド各地からの囚人が続き、最終的にはスロバキア、ベーメン・メーレン保護領、ドイツ、オーストリア、フランス、ベルギー、オランダ、ノルウェー、イタリア、ユーゴスラビア、ギリシャからも移送された。大多数の人々は列車から直接ガス室へと連れて行かれ、残りのみが登録されて収容所に収容された。

イギリスの歴史家ローレンス・リースは著書『ホロコースト――新たなる歴史』の中で次のように記している。
「SS隊員たちは、主収容所とアウシュヴィッツ=ビルケナウの中間にある線路脇の埃っぽい地面で選別を始めた。『プラットホーム(ランプ)』と呼ばれたこの場所で、SSの医療要員は到着者一人ひとりをわずか数秒で見極め、強制労働に適した者を片側へ、ガス殺すべき者を反対側へと振り分けた」
ガス室で殺害された遺体は、当初は野焼きにされ、のちに火葬場で焼却された。1943年以降、KLアウシュヴィッツはヨーロッパ・ユダヤ人絶滅の主要かつ最大の中心地となった。犯罪活動は1944年夏、いわゆる「ハンガリー・ユダヤ人移送作戦」の際にピークに達した。
「1944年5月から7月にかけて、約43万人のハンガリー系ユダヤ人がアウシュヴィッツに移送された。(…)各輸送の70〜90%が即死の対象として選別された。これほど膨大な犠牲者を処理するため、第IV・第V火葬場とガス室の近くには巨大な焼却坑が掘られた」――リースの著書にはこうある。ガス室は1944年10月末まで稼働し続けた。
400万人――だが、本当に?
1945年1月、赤軍が収容所を解放すると、独ファシスト侵略者の犯罪を調査するソ連国家特別委員会が記録作業を開始し、犠牲者数の確定を試みた。
ドイツ側の文書は所員らによって破棄されていたため、委員会は生存者(ゾンダーコマンドーの元メンバーを含む)や捕虜となったSS隊員の証言、そして部分的に残存した施設に頼るしかなかった。手法はこうだ。火葬場の炉を数え、1日あたりの処理能力と稼働期間を割り出し、単純な掛け算を行う。そうして出たのが500万という数字だった。
ただし火葬場が常時稼働していたわけではないと考え、およそ5分の1を差し引いた。こうして「犠牲者400万人、うち90%がユダヤ人」という数字が導き出された。元収容所長ルドルフ・ヘスもニュルンベルクの国際軍事法廷で「300万人が死亡した」と証言し、同様の数字を裏付けた。彼は後に撤回したが、当初の証言は繰り返し引用され、犠牲者数論争の重要な根拠とされ続けた。

ソ連側が確定した――正確には推定した――400万人という数字は、ポーランドのドイツ犯罪調査主要委員会にも受け入れられ、学術研究、教科書、報道に恒久的に組み込まれた。1967年4月にブジェジンカ(アウシュヴィッツII=ビルケナウ)で除幕された国際犠牲者追悼碑にも、そのまま刻まれたのである。
一部の歴史家や研究者はソ連の推計に疑問を呈したが、その声は顧みられなかった。アウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館研究センターのボフダン・ピェントカによれば、過大評価への最初の指摘は1946年、中央ユダヤ歴史委員会の責任者を務めたポーランド系ユダヤ人歴史家ナタン・ブルメンタルによるもので、彼は「130万〜150万人が収容所で殺害された」と主張した。

懐疑派は他にもいた。イギリスの政治家マイケル・フット、イスラエルの歴史家エーリヒ・クルカ、ドイツ占領期ポーランド研究の第一人者チェスワフ・マダイチック教授、ナチス戦犯訴追を担った司法省代表ヤン・セーン教授らも、死亡者数の過大評価を指摘している。1961年にはアメリカの研究者ラウル・ヒルバーグが「アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人は“わずか”100万人」と算出した。また1974年にエルサレムで刊行された『ユダヤ百科事典』は、犠牲者数を100万〜250万人の範囲としながら、前者の方が可能性が高いとした。
悲劇の象徴となった数字
それでも400万人は公式の数字として定着し、瞬く間にホロコーストの陰鬱な象徴となった。その規模は衝撃的で、ナチス犯罪の凄惨さを如実に示してはいた。一方で、合理的な疑問も呼び起こした。ピェントカはこう述べている。「この数字(…)は統計計算の結果を歪めた。何より、第二次世界大戦におけるユダヤ人の人的損失全体の収支に組み込まれていなかった」
後の歴史家たちは検証を試みた。最も重要な成果を上げたのは1980年代初頭、フランスの研究者で元囚人でもあるジョルジュ・ウェレールだった。彼は、アウシュヴィッツへ人々が移送された各国の人口損失データと、ダヌタ・チェフ編纂の「KLアウシュヴィッツ事件暦」を突き合わせた。その結果、合計160万人が移送され、うち150万人が死亡したことが判明した。通説よりはるかに少ない数字だった。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館に長年在籍したフランチシェク・ピーパー博士も独自の調査を行った。彼は諸説を整理・分析し、新たな集計を提案した。移送されてきたユダヤ人のうち18万人が労働収容者として選ばれ、これは全囚人の10%に相当すると仮定した場合、虐殺されたのは約180万人となる。
ところが問題がある。その後ピーパー博士は、他の研究者の見解に従い、最初の選別を「通過」したのは18万人ではなく40万人だったと修正した。では、即座にガス室へ送られたのは何人なのか。
多くの民族の墓
ドイツ人の几帳面さという通念に反して、アウシュヴィッツに到着した多くの輸送の囚人は一切登録されず、貨物車から直接ガス室へ送られた。つまり彼らの名簿は存在しない――推計の基礎となる記録すらもだ。ピーパーを救ったのは、収容所内の抵抗組織が非合法に作成した輸送リストと、移送元各国が残していた綿密な登記文書だった。
これらの断片的なデータを丹念に突き合わせた結果、ピーパーは数年後、少なくとも130万人(大部分はユダヤ人)がアウシュヴィッツに送られ、うち110万人が命を落としたと結論づけた。40万人は強制労働収容者として台帳に記載されたが、やがてその半数近くが飢餓、病気、過酷な労働で死亡した。
彼は1990年代初頭、著書『KLアウシュヴィッツで何人が死亡したか――資料と研究1945〜1990年に見る犠牲者数』でこの結論を発表した。計算はポーランドおよび世界の学界に承認され、130万人(あるいは「約100万人」)という数字は学術書や論文に広く採用された。ビルケナウの記念碑の銘板も、この数字に改められた。

多くのユダヤ人が列車から直接ガス室へ送られたため、今日でも収容所の犠牲者数を厳密に確定することは困難である。
では、アウシュヴィッツで実際に亡くなったユダヤ人は何人なのか。最新の研究によれば、約110万人が収容所に送られ(うち30万人がポーランド人)、20万人が囚人として登録されて強制労働に就かされた(他の出自の労働者もほぼ同数いた)。残りは到着後ただちにガス室で殺害された。合計すると、約100万人のユダヤ人が犠牲となった。
その他の犠牲者はどうか。投獄されたポーランド人約14万〜15万人のうち約7万〜7万5,000人が死亡し、ロマ(シンティ・ロマ)約2万3,000人のうち2万1,000人以上が、ソ連軍捕虜約1万5,000人のほぼ全員が殺害された。さらに、ウクライナ人、ベラルーシ人、チェコ人、ユーゴスラビア人、オランダ人、ベルギー人、フランス人、ドイツ人、オーストリア人など約2万5,000人の囚人がこの収容所を経由していった。犠牲者が400万人であれ「わずか」100万人であれ、この犯罪の規模が途方もなく巨大であることに変わりはない。