ワシントンのタデウシュ・コシチュシュコ記念碑が損壊した事件は、社会の緊張や不正義、そして歴史的な誤解を象徴する出来事となりました。なぜなら、ポーランドの国民的英雄であり、アメリカ独立戦争では大陸軍の将軍を務めた彼こそ、人種差別撤廃の熱心な提唱者だったからです。もしあの「知られざる遺言」の理念が実現していたら、歴史はどのような道を辿っていたのでしょうか。
コシチュシュコは1794年の「コシチュシュコ蜂起」における国民武装軍の最高司令官であり、ポーランド・リトアニア共和国軍の中将でもありました。さらに、史上初めてヴィルトゥティ・ミリタリ勲章――今日でもポーランド最高の戦功勲章とされる――の金メダルを授与された人物です。一言でいえば、愛国者にして英雄、啓蒙時代の人間像を体現するような真の政治家でした。彼は精神の資質を物質世界と結びつけて考えた人物だったのです。
啓蒙時代の人間にして政治家
ナポレオン・ボナパルトは彼を「北の英雄」と呼び、強大な権力を誇ったエカチェリーナ2世は彼を本物の「野獣」と評しました。さらにフランスの歴史家ジュール・ミシュレは、彼を「最後の騎士であると同時に、友愛と平等について近代的な理解を持った最初のポーランド人」と評しています。そして、この最後の言葉こそ、ポーランドの英雄が残したいわゆる「遺言」の意義を理解するうえで鍵となるものです。そこには、何百万もの黒人アメリカ市民の運命を変え得る文言が含まれていたのですから。
自由のための戦い――我らのもの、汝らのもの
コシチュシュコといえば戦闘を思い浮かべる人が多いでしょう。兄ヨゼフが小さな家領の相続人となったため、タデウシュは自らの未来を軍人の道に託すことを決めたのです。1765年12月18日、19歳のコシチュシュコは騎士学校の士官候補生課程に入り、普遍史を幅広く学び、哲学・法学・経済学の奥義を習得するとともに、ラテン語、ポーランド語、さらにはドイツ語やフランス語まで修めました。
タデウシュ・コシチュシュコは間違いなく時代を先取りしていた
彼にとって自由のための闘いとは、単なる軍事行動にとどまらず、責任感、同胞への配慮、祖国を守る義務といった概念によっても定義されるものでした。コシチュシュコは、その価値観を示す見識と行動によって高く評価されました。フランス革命期には、フランス立法議会が彼を「専制君主に対する民衆の擁護者」として名誉フランス市民権を授与したことだけでも、それがよくわかります。コシチュシュコの自由のための闘いは、複数の大陸にまたがって展開されたのです。
アメリカでの戦いと夢
まず事実を整理しましょう。コシチュシュコが初めてアメリカの地を踏んだのは1776年9月24日。興味深いことに、これは独立宣言の発布から1ヶ月足らずの時期でした。彼はほどなくアメリカ軍の工兵に任命され、サラトガの戦いでの勝利につながる要塞工事によって特筆すべき名声を得ます。その後、ハドソン川沿いのウェストポイント要塞の設計者としても名を馳せました。これはアメリカ軍総司令官ジョージ・ワシントンの依頼によるもので、大統領はこの地点を戦役の鍵を握る戦略的要衝と見なしていたのです。
ジョージ・ワシントンがコシチュシュコにシンシナティ協会章を授与する
コシチュシュコの軍事的才能、工学のセンス、啓蒙的な教養はたちまち高く評価されました。1783年、彼はアメリカ軍准将に昇進します。この栄誉ある称号には相応の金銭的報酬も伴いました。彼は約250ヘクタールの土地を所有地として受け取り、俸給として高額な報酬を得ており――当時のコシチュシュコの総資産は約17,000ドルと見積もられていました。富は地位と権力の保証になるだけでなく、奴隷の身にあるアメリカ市民にとっては自由をつかむチャンスにもなり得たのです。
奴隷制廃止のための資産
「ジェファーソン殿、私が死んだ暁には、私の財産を用いて、教育を受け正しい生活を送れるだけの多くの黒人を解放してください……」――これは1798年5月5日付の書簡の一節で、コシチュシュコ将軍が友人であり後の合衆国大統領トマス・ジェファーソン宛てに綴ったものです。この一文は、ポーランドとアメリカ両国の英雄にとって大切であった動機、理想、価値観を見事に物語っています。
また、1797年から98年にかけてタデウシュ・コシチュシュコが2度目の渡米を果たしたとき、彼の名前はすでにアメリカ社会に深く浸透していました。それも、独立戦争での武功だけでなく、故国でのコシチュシュコ蜂起の名声によってです。
「コシチュシュコは私がこれまで知る限り最も純粋な自由の子であった(…)しかも、少数者や富裕層のためではなく、すべての人々のための自由を求めていた」
――こう語ったのは、遺言の実行を託された友人トマス・ジェファーソンです。
タデウシュ・コシチュシュコは人々の苦難に敏感だった
1801年3月4日に大統領の栄誉ある職に就いたジェファーソンは、遺言に指定された金額をもって黒人たちを身請けし、その後に教育を施すことになっていました。教育に加えて、彼ら一人ひとりが、農具一式と家畜を備えた100エーカーの土地と安定した収入を得る権利を持つはずでした。これらの理想は、まさに啓蒙主義の価値観と一致するものでした。奴隷制廃止のための私有財産? しかし政治は白黒はっきりしたものではありません。
果たされなかった約束
ジェファーソンは老齢とそれに伴う健康不良を理由に、コシチュシュコの理想の実現を先延ばしにしました。研究者たちによれば、合衆国大統領は、そうした革命的な動きが暴力的な流血事態を招き、内乱にすら発展しかねない社会的緊張を引き起こすことを恐れたのだといいます。考古学を修め、建築家としても知られた政治家トマス・ジェファーソンは、そもそもきわめて矛盾した思想の持ち主と言える人物でした。
タデウシュ・コシチュシュコは自らの財産を黒人の解放と教育のために使おうとした
というのも、第三代合衆国大統領はおそらくバージニア州最大級の奴隷所有者の一人でありながら、奴隷制という制度そのものには反対していたからです。さらに付け加えれば、彼が州議会に出した初期の提案の一つには奴隷制廃止法案が含まれていましたが、採択には至りませんでした。もう一つの問題は、二度とアメリカに戻らなかったコシチュシュコには、ほかにも親族や友人がいたということです。その一人が、ポーランドの英雄が晩年を共に過ごしたスイス市民フランソワ・グザヴィエ・ゼルトナーであり、将軍の一族もまた相続人でした。ジェファーソンはおそらく善意から動いていたものの、決して容易ではない約束を背負うことになったのです。
すべては万人のために――奴隷制の確立と枷の解除
自由、平等、友愛。こうした信念は、ポーランド・リトアニア共和国の農奴たちの暮らしを目の当たりにした頃に、コシチュシュコの中で強まったと推察されます。何しろ、主に農民から成る志願歩兵部隊「コシニェル(鎌兵)」の編成の着想は彼に帰されているのですから。しかし忘れてはならないのは、アメリカの自由のための軍事作戦にも、数多くの黒人部隊が参加していたという事実です。
コシチュシュコの黒人従卒アグリッパ・ハル
コシチュシュコの信念と社会的感受性に特に大きな影響を与えたのが、独立戦争で彼に仕えた黒人の従卒(当時の軍隊では将校に常時付き添う兵士を指す)アグリッパ・ハルでした。二人の戦友は心で結ばれ、友情を育み、似た価値観を分かち合っていました。
庶民に近かったコシチュシュコは、奴隷制こそ野蛮な考えであると確信していました。しかしその一方で、未来の大国アメリカ合衆国の経済力は、まさにその上に築かれていたのです。
象徴的に実現した遺言
アメリカにおける奴隷制は、最終的には南北戦争の結果として廃止されました。すなわち1865年、連邦議会が奴隷制廃止を定める合衆国憲法修正第13条を採択したのです。興味深いことに、南北戦争後、この問題で最も精力的に活動した急進派政治家の一人に、ポーランドの英雄にちなんで名付けられたサデウス・スティーブンスという人物がいました。つまり、遺言は象徴的には最終的に果たされたと考えることができるのです。しかし実際の資金は、米国の裁判所の判断によりコシチュシュコの親族へ譲渡されることになりました。裁判所は、資産移転の責任を最終的に誰が負うべきかを決めかねたのです。
シカゴのコシチュシュコ記念碑
コシチュシュコの名前といえば、私たちは自然と、自由のための闘い、ポーランドの国益、そして愛国心を連想します。英雄の名はミシシッピ州の都市名やインディアナ州の郡名にも冠され、オーストラリア最高峰の山はコシチュシュコ山と呼ばれています。しかし忘れてはならないのは、タデウシュ・コシチュシュコが単なる武人ではなく、その遺言の条項が今なお計り知れない価値を持つ政治家でもあったということです。もし「知られざる遺言」の理念が実現されていたら、歴史はまったく違う未来を描いていたかもしれません。