歴史物語

クレトノの秘密ウラン鉱山――ソ連の原爆開発を支えたポーランド人強制労働者の悲劇

1949年から52年にかけて、ズデーテン山地のクレトノにあるウラン鉱山では、ソ連がポーランド人の手を借りて、自国の原子爆弾建造のための原料を採掘していた。

1948年7月、クレトノの古い鉱滓(ズリ山)を調査していたソ連の地質学者たちは、中世に開削された聖パウロ坑道(後の7号坑口)と聖ヤコブ坑道(後の9号坑口)で異常に高いガンマ線量を検出した。同年、ソ連は鉱床開発に向けた準備作業を開始する。ズデーテンのウランは、彼らが自国の原子爆弾を作るために使われることになったのだ。ソ連国内にはウランがなく、スターリンが冷戦の核軍拡競争でアメリカに打ち勝とうとするなら、致命的な兵器の構築に不可欠な同位体235を緊急に確保する必要があったのである。

極秘計画「コパリニ」

ソ連は素早く動いた。当初は鉱滓からウランを採取していたが、まもなく本格的な坑道掘削に着手。わずか3年間で、9〜10の深度レベルにわたり総延長37キロメートルの坑道群――3本の立坑、27本の主要坑道、そして数多くの側坑――が掘り進められたのである。クレトノでの採掘作業は、1948年にポーランド人民共和国政府と「友好国」ソ連との間で結ばれた協定に基づいて実施された。この協定により、ソ連側はポーランド国内のどこでもウラン鉱床を探査することが許されていた。

しかし、探査作業には自国の地質調査所の専門家を投入したものの、採掘そのもので「手を汚す」つもりはなかった。技術職員はすべてソ連人、労働者はポーランド人だった。その中核をなしたのは、主として強制労働者――労働収容所の囚人、徴集された兵士、「反動分子」や「人民の敵」とされた人々である。少数ながら志願者もいた。高額な賃金の約束に惹かれてズデーテンにやって来た、上シレジア出身の熟練鉱夫たちだ。近隣のストロニエ・シロンシキエには、鉱山労働者のためにモラフカ住宅地まで建設された。飢えとの引き換えに働く者も、厚遇されて働く者も、皆等しく恐ろしい代償を払わなければならなかった。

クレトノの秘密ウラン鉱山――ソ連の原爆開発を支えたポーランド人強制労働者の悲劇

技術職員はすべてソ連側から、労働者はポーランド側から供給された(資料写真)。

その犠牲は長年にわたりトップシークレットとされた。クレトノの鉱山作業そのものも例外ではない。ここには「コパリニ(Kopaliny)」というコードネームが与えられ、工業企業「R-1」の「第III地区」と位置づけられていた。探査対象の原料名に言及すること自体が、外国諜報機関のための活動とみなされるほど厳重な秘密保持が徹底されていた。報告書では「ウラン」の代わりに「金属」と記され、公式文書や書簡には「R2」「P-9」、あるいは謎めいた「非鉄金属」という言葉が現れた。ソ連への輸送品目は、少なくとも公式には「廃土」とされていたのである。

1日12時間、素手での積み込み作業

推定によれば、クレトノ鉱山の比較的短い操業期間中に、ソ連は約20トンの純ウランを獲得した。これはズデーテンにおけるソ連の全生産量の5%に相当する。「そこでは乱暴きわまる採掘が行われていた。重要なのはウランだけで、その過程で産出された蛍石は廃棄物扱いされた。一部は採掘跡の埋め戻しに使われ、残りはズリ山に積み上げられた」と、ロベルト・ボジェンツキとアネタ・マレクは述べている。

労働条件は劣悪を極めた。ソ連は無償の奴隷労働に依存していたため、安全対策など気にも留めなかった。病気や事故の統計は残されていないが、間違いなく多発していたはずだ。マチェイ・シェンビエンダは歴史小説『Katharsis(カタルシス)』の中で、クレトノ鉱山におけるポーランド人強制労働者の日常を次のように描いている。

12人の新しい男が15分前、地下へ降りていった。班長は彼らに短い訓示を与えた。(中略)坑底に敷かれたレールと、浴場の浴槽の半分ほどの大きさのトロッコを見せた。何をしてはいけないかも告げられた。どんな小さな岩石片も坑外に持ち出してはならない。爪の先に隠せる汚れほどの大きさでもだ。質問をしてはならない。会話も同様だ。どれもこれも非常に危険なことだった。全員が保安局(UB)に送られ、そこから戻れない者もいた。まして自分の足で戻ることはまずなかった(後略)。

クレトノの秘密ウラン鉱山――ソ連の原爆開発を支えたポーランド人強制労働者の悲劇

本稿は、アゴラ出版から刊行されたばかりのマチェイ・シェンビエンダの最新小説『Katharsis』に着想を得ている。

「1日12時間働くんだ」と彼は説明した。「発破係が最初に最前部へ入る。岩が崩れたら、あとから大勢が入る。破片をトロッコに積んで後方へ押すんだ。素手での積み込みだ。手袋なんてない。だが、仕事をサボろうとわざと腕に傷をつける奴を見つけたら、保安局で話をすることになる。分かったか?」

塵肺、放射線障害、そして消えていく肺

足りなかったのは手袋だけではない。防塵服もマスクも支給されなかった。当然のことながら、少なくとも鉱山従業員の半数が呼吸器系の不調を訴えた。しかし最大の脅威は、目に見えないものだった。マチェイ・シェンビエンダは『Katharsis』の中でこう綴っている。

ショットガンは4日後に倒れた。以前から、腹が本物の火で焼かれるようだと訴えていた。朝、苦いコーヒーと一緒に出される固くなったパンが飲み込めず、一日の主食であるスープしか食べられなくなった。それでも焼けるような痛みは続いた。ある日、耐えきれなくなった彼は、胆汁を吐き出した後でさえ唾も吐けず、坑道の壁を伝って流れる氷のように冷たい水を飲んだ。翌日、彼は言葉を失った。

多くの鉱夫にとって、「材料」との接触はたちまち副作用をもたらした。慢性的な頭痛と疲労感。皮膚や爪が手から剥がれ落ち、髪や歯が抜け落ちたのである。労働者たちは自分が実際に何を採掘しているのか知らされていなかったため、自らの安全にも無頓着だった。坑内水を飲み、食事の前に手を洗わなかった。作業着に付着した放射性粉塵を、家(あるいはバラック)にまで持ち帰っていたのだ。見えざる殺人者の犠牲者は強制労働者だけではなかった。経験豊富な鉱夫たちも同じ運命を辿った。『Katharsis』にはこうある。

カトヴィツェ出身の鉱夫アウォイズは、「非鉄金属鉱石」の採掘に高賃金を約束するコヴァルィ鉱山会社がシレジアで展開していた勧誘に乗り、自らの意志でズデーテンにやって来た。アウォイズにはもう金があり、ソファが札束で一杯になるほどだったが、それを使う時間はなかった。まず髪が抜け落ち、次いで歯が抜けた。診療所でのX線検査の後、このシレジア人の足取りは、医師たちがX線写真上に確認できなかった肺の輪郭と同じように、消え去ってしまった。

シェンビエンダが描いた事例は小説の登場人物のものだが、実生活においてもその実例は容易に見つかる。例えばユゼフ・ブチュコフスキー。ウランの手選別作業の結果、彼は激しい偏頭痛と慢性障害に苦しみ、両手の皮膚は完全に剥がれ落ちてしまった。

無数の犠牲者の中の一人

クレトノ鉱山の操業最初の2年間、採掘作業は極めて集中的に行われた。しかし1951年初頭から生産量は大幅に減少し始める。「1953年初頭から、クレトノのコパリニ鉱山はゾワティ・ストクのヒ素工業の枠組みで操業したが、ウラン採掘はさらに四半期続いた。新しい経営陣の下で、鉱山は地下での蛍石採掘を開始した」。

クレトノの秘密ウラン鉱山――ソ連の原爆開発を支えたポーランド人強制労働者の悲劇

R-1工業企業の敷地内に立てられた警告板。

蛍石採掘は1958年まで続いた。その後、地下採掘は完全に放棄され、一部の坑道は水没し、入口は崩落していった。鉱山が正式に操業を終えた後でさえ、それは秘密であり続けるはずだった。他の地域でも事情は同じだった。クレトノの鉱山は、下シレジアに存在した唯一の施設ではない。それはソ連のいわゆる「R-1工業企業」の一部にすぎず、同企業にはコヴァルィ、ラドニゥフ、ヤノヴァ・グラ、マルチンキゥフなどの鉱山も含まれていた。R-1工業企業全体では約2万人が雇用されていたという。最後まで操業が続いたコヴァルィの鉱山は、1973年に閉鎖された。

参考文献:

  1. Robert Borzęcki, Aneta Marek,『シニェジュニク山地におけるウラン鉱石採掘の遺構』, "Hereditas Minariorum", 3, 2016, pp. 109-133.
  2. Robert Klementowski,『ズデーテンのウランの影で――1948〜1973年のポーランドにおけるウラン採掘』, IPN Wrocław, 2010.
  3. 『ウランおよび蛍石鉱床の探査と採掘』, Historia, Kletno.pl(2022年5月17日閲覧)。
  4. Wojciech Rejman,『ポーランドのウラン鉱山』, "Wiedza i Życie" 1996年第9号。
  5. Irena Stein,『シレジアの秘密ウラン鉱山――鉱夫の歯は抜け落ち、皮膚は剥がれた』, Focus(2022年5月17日閲覧)。