歴史物語

不死身の男:何ものにも止められなかったアドリアン・カルトン・ド・ウィアート将軍

戦争に魅せられた男

片目を失っても、次の戦争への参戦だけを考えていた。片腕を切断されても、それは歯を抜くのと大差ない感覚だったという。頭を撃ち抜かれ、脚の切断寸前まで追い込まれ、幾度もの墜落事故を生き延びた。マーベル映画のヒーローたちでさえ、彼の前では霞んでしまうだろう。

若き日の冒険

アドリアン・カルトン・ド・ウィアートは1880年5月5日、ブリュッセルに生まれた。6歳で母を亡くすと父とカイロへ移り、そこで父がイギリス人女性と再婚。継母は義理の息子を「徹底したイギリス人」に仕立て上げようとした。少年は複数の言語を操り、スポーツ万能、乗馬と射撃の達人となった。オックスフォード大学へ進学するが、中退している。

1899年、英布戦争が勃発すると、突如として戦争に強く惹かれるようになる。外国人であった彼は正規の入隊が叶わないと知ると、身分を偽ってイギリス軍に志願した。

アフリカ戦線では早々に腹部と鼠径部を銃撃され、療養中に正体が露見して除隊させられる。しかし彼は諦めず、ケープタウンで騎兵隊に再入隊。伍長に昇進するも、24時間後に曹長を殴ると脅したとして降格処分を受けるという、早くも波乱の幕開けとなった。

不死身の男:何ものにも止められなかったアドリアン・カルトン・ド・ウィアート将軍
布戦争時代、第4近衛竜騎兵連隊の少尉として撮られた一枚(1901年)。後の無数の傷跡が刻まれる前の姿である。『わがオデッセイ』(ベローナ、2016年)所収。

第一次世界大戦:地獄の諸戦線で

不利な条件下ながら、彼は少尉として任官を受ける。しかし戦争は彼を失望させた。「孤軍奮闘してブーア人部隊に突撃し、英雄的な死を遂げ、死後複数のヴィクトリア十字章を受章する」という夢は、静かに消えていった。

1901年、インド駐屯の新部隊へ配属。そこでポロとイノシシの槍狩りに没頭し、鎖骨骨折、肋骨骨折数本、足首捻挫という代償を払った。

1914年8月、イギリスがドイツに宣戦布告したとき、彼はソマリアでデルヴィッシュ勢力と戦っていた。ある襲撃の際、両目と肘、耳に被弾。特に目への負傷は深刻で、摘出が決定された。若き将校にとって衝撃だったが、彼はアフリカでの手術を拒否。「視力を救う」という建前でイギリスへの送還を勝ち取ったのだ。回想録『わがオデッセイ』に彼は記している。「それが、ヨーロッパで戦われている戦争への参加への道を開いた。両目でも、片目でも構わない」と。

海路での帰還は、衰弱しきり、ほぼ盲目となった兵士にとって悪夢だったが、目的は果たされた。片目を失ったが、軍医審査委員会は彼の現役復帰を認めた。

1915年2月、左目に黒い眼帯をしてフランス戦線へ。わずか2ヶ月後、第2次イーペル会戦の冒頭でドイツ軍の銃弾が左腕を粉砕し、切断を余儀なくされた。

不死身の男:何ものにも止められなかったアドリアン・カルトン・ド・ウィアート将軍
1年のうちに片目と片腕を失いながら、戦い続ける意志は衰えなかった。『わがオデッセイ』(ベローナ、2016年)所収。

彼は後にこう書き残している。「その手術全体が、私には歯を抜くのと大して変わらない印象しか与えなかった。1時間後にはひとりで昼食をとっていた」。切断から2日目には歩兵への復帰を志願し、3週間後には病院を退院した。

血塗られた攻勢

1916年7月、歩兵大隊長としてソンム攻勢に参加。前進中に再び被弾する。ドイツ軍重機関銃の弾丸が後頭部を貫通したのだ。頭蓋骨を傷つけることなく。以来、散髪のたびにズキズキする感覚が残ったという。

3週間で復帰すると、即座に榴散弾の破片が足首に命中。再び強制療養の後、彼は旅団長となり、1年で大尉から准将へと昇進。当時、前線将校の平均生存期間が2週間だったことを思えば、驚異的な偉業だった。

不死身の男:何ものにも止められなかったアドリアン・カルトン・ド・ウィアート将軍
ソンム会戦で後頭部を貫かれた弾丸さえ、彼をあの世へ送ることはできなかった。写真は同会戦時のイギリス軍塹壕(パブリックドメイン)。

それでもドイツ軍の弾丸は彼を磁石のように引き寄せた。1917年4月、アラス会戦の前夜に榴散弾で耳を負傷。7月にはパッシェンデール会戦(連合軍がわずかな前進のために45万人を失った泥沼の戦い)に参加。アラス付近で陽動作戦中、再び負傷。榴散弾の破片が股関節を直撃し、3ヶ月の入院を強いられた。復帰間もなく脚の切断寸前の重傷を負い、再び病院へ。1918年10月、休戦直前にフランス戦線へ戻った。

ポーランドへの使命

1919年2月、カルトン・ド・ウィアート准将は予期せぬ形でポーランドへ赴くことになる。ボリシェヴィキと戦うポーランドへのイギリス軍事使節団の一員としてだ。ユゼフ・ピウスツキ元帥は将軍に強烈な印象を与え、二人はすぐに友人となった。『わがオデッセイ』で彼は総帥についてこう記している。

「生涯で多くの著名人、世界的な偉人たちに会ってきた。ピウスツキは間違いなく彼らの上位に位置し、政治家としてなら、私は彼を最も高く評価する」

ポーランドでは数々の冒険が待ち受けていた。包囲下のリヴィウでウクライナ人との交渉に参加。リウネでの前線視察中、ボリシェヴィキの砲撃で列車が脱線し、辛くして脱出した。ムワヴァ近郊のポーランド陣地視察では、コサック騎兵と小競り合いになる。

空の旅も災難続きだった。キエフ着陸時に墜落事故を生き延び、リガへの飛行中には「明らかに暇を持て余したドイツ兵のライフル弾1発」が機体を貫き、弾丸は彼の座席からわずか十数センチをかすめていった。 帰路ではパイロットが未整備地に2度も緊急着陸。結局、ワルシャワへは列車で戻った。ポーランド・リトアニアのヴィリニュス争奪戦では、国際連盟代表としてリトアニア兵に射殺されかけた。

不死身の男:何ものにも止められなかったアドリアン・カルトン・ド・ウィアート将軍
使命終了後、プリピャチ湿原の孤島にあるプロスティニ邸に定住。ソ連国境まで数マイルという地で、後の20年間を「人生で最も幸せな時期」と振り返った。『わがオデッセイ』(ベローナ、2016年)所収。

第二次世界大戦

1939年6月、再び軍服に身を包み、対ポーランド英国軍事使節団長となる。シミグウイ・リツ元帥との会談で、国境での決戦ではなくヴィスワ川防衛線を主張したが、聞き入れられなかった。

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空路での災難が絶えなかったが、彼はこの国で20年を過ごした。1920年、ポーランド人パイロットとブリストルF.2B戦闘機の前で。『わがオデッセイ』(ベローナ、2016年)所収。

9月初頭、ワルシャワ空襲を目撃し、英国使節団の撤退を指揮。ソ連がポーランドに侵攻すると、リツ元帥に同行を申し出たが、元帥はルーマニアへ逃れた。将軍は後年、リツについてこう綴っている。

「彼の振る舞いは、私がポーランド人について知っていたすべてを否定するものだった。 あのときの気持ちを、言葉で表すのは難しい。」

1940年4月、ノルウェーのトロンハイム方面で戦うが、「人生で最も退屈な作戦」と酷評。その後、北アイルランド配備の歩兵師団長として、ドイツ侵攻の万が一に備えた。

1941年4月、ユーゴスラビア英国軍事使節団長に就任。現地当局との会談へ向かうウェリントン機がエンジントラブルで緊急着陸。イタリア軍の捕虜となり、5度の脱出を試みた。 1943年、イタリアが彼を停戦交渉に利用した際に釈放される。

不死身の男:何ものにも止められなかったアドリアン・カルトン・ド・ウィアート将軍
釈放後、外交任務へ。カイロ会議にて、蒋介石元帥、ルーズベルト大統領、チャーチル首相と共に(パブリックドメイン)。

捕虜生活から戻っても休むことはなかった。チャーチルは彼を1943年11月のカイロ会議の英国代表団員に任命。さらに蒋介石のもとへ、首相の個人代表として派遣した。そこで2度の墜落事故に遭っている。

戦後、ラングーンからの帰還途中、階段から転落して脊椎を骨折するという不運に見舞われる。しかし長いリハビリを経て、再び全快した。ヴィクトリア十字章、ポーランド軍事功労十字章銀星、大英帝国勲章ナイト・コマンダーなど20以上の勲章を受けたアドリアン・カルトン・ド・ウィアートは、1963年、83歳で生涯を閉じた。