いいえ、学校を発明したのは、あのシャルルマーニュ大帝ではありません。「ある日突然、学校を発明しよう」と思いついた人物など存在しないのです。皇帝は学校の発展を奨励しましたが、「学校」という仕組み自体は古くから存在し、何度も再発明を重ねながら、現在の教育制度へと進化してきました。実は古代から、人類の社会は知識や技術を次世代へ伝えるための、さまざまな仕組みを築き上げてきたのです。
古代における教育
古代エジプトでは、教育は主に一般文字であるヒエラティック(神官文字)の習得にとどまっていました。宗教職や行政職に就く運命にある、ごく少数のエリートだけが、ヒエログリフ(聖刻文字)の奥義を学ぶことを許されました。長い修行の末に約束されるのは、高い社会的地位でした。
一方、古代ギリシャでは、教育は最初の高度な洗練期を迎えます。文字の学習に加え、文学、戦術、スポーツといった新しい分野が加わりました。その理念は、身体と知性の発達を調和させることにあります。とはいえ、この教育の恩恵を受けられたのは貴族階級の子弟ばかり。家庭教師による個別指導か、都市のギムナシオンで学ぶのが一般的でした。
古代ローマのエリート養成は、ギリシャのやり方に大きく影響されています。裕福なパトリキ(貴族)の家々は、多くの場合、ギリシャ人奴隷を雇って男子の教育に当たらせました。ローマ共和政においては、軍事術を操ることと弁論術を極めることが、同じくらい重要だったのです。
学校とシャルルマーニュ
西ローマ帝国の崩壊とともに、教育は急速に衰退します。メロヴィング朝時代には、読み・書き・計算を学べる場所はきわめて稀となり、宗教界や政治界のエリートの大半は完全な文盲でした。この状況を憂えたのがシャルルマーニュ自身です。彼自身も読み書きができず、広大な帝国を統治するには、十分な訓練を受けた官僚がどうしても必要でした。
この事態の打開を担ったのが、側近の一人であるイングランド出身の修道士アルクィンです。アーヘンの宮廷で若い貴族たちの教育を任された彼は、初代「公共教育大臣」とも呼ぶべき存在として、教育の体系化を進めました。文法、修辞学、計算、天文学……これらが教科として整理されていったのです。さらに帝国全土の聖職者に対し、首都のモデルに倣った学校の開設が命じられました。この積極的な政策は、カロリング朝「ルネサンス」と呼ばれる文化的復興に大きく貢献することになります。
12世紀に入ると、衰退していた修道院学校に代わって、最初の大学群が誕生します。1200年にフィリップ2世(尊厳王)が創設したパリ大学もその一つで、法学、芸術、医学、そしてもちろん神学が教えられました。引き続き宗教機関に由来するものではあったものの、ルネサンス期以降はコレージュやリセが発展し、フランス語が次第にラテン語に取って代わっていきます。王権はこうした学校を奨励しながらも、組織化にも財政支援にも関与しなかったため、その数と規模は限られたものでした。フランス革命によって、世俗的かつ無償の教育という原則が初めて打ち立てられます。それでもなお、第三共和政が始まるまで、学校は宗教教育の管理下に置かれ続けたのです。
そしてジュール・フェリーへ
19世紀には、いくつもの政権が初等教育の組織化に取り組みました。1850年のファルー法は、すべての自治体に国の資金による小学校の設置を義務付け、私立の宗教学校との共存を認めました。決定的となったのは1882年3月のフェリー法です。これにより、6歳から13歳までの初等教育が義務制・無償・世俗化されました。第二次世界大戦後は中等教育も無償化され、1959年には16歳までの義務教育が法制化されます。最終的に1976年のアビー法により、統一型の中学校が全国に普及することとなりました。
厳密に言えば「学校を発明した」人物は存在しません。しかし、教育改革を発明し、再発明し続けた人物が誰なのかは分かっています。それは、この50年間のほぼすべての教育大臣たちです。ただし、その成果が学校の質と効率の向上につながった例は、めったにないのですが……。
さらに詳しく知るために
- 『学校の歴史――シャルルマーニュからジュール・フェリーまでの師と弟子』ピエール・ジョリット著、イマゴ社、2003年
- 『学校のもっとも美しい歴史』アラン・ボワスノ、リュック・フェリー共著、ラフォン社、2017年