第一次世界大戦が始まってまだ2か月足らずの1914年9月22日、オットー・ヴェディゲン大尉が指揮するドイツ潜水艦U-9は、驚異的な戦果を上げました。わずか29名の乗員を擁するこの目立たない艦は、1時間以内にイギリス巡洋艦3隻を魚雷で撃沈したのです。甲板上では1,400名を超える水兵が命を落としました。Uボートの脅威を前に屈辱を味わったイギリス海軍は、その無防備ぶりをまざまざと露呈することとなりました。
大戦勃発当時、皇帝ドイツの潜水艦隊はわずか29隻で構成され、さらに21隻が建造の途上にあるにすぎませんでした。当時、潜水艦はやや軽視されて扱われていました。真の脅威として真剣に受け止められることはなく、哨戒や偵察活動が主な任務とされていました。艦隊の主役は、あくまで強力な戦艦と巡洋艦であるはずだったのです。しかし、開戦後わずか数か月で、こうした見方は痛烈な形で覆されることになりました。
狼、狩りに出る
命令によれば、U-9は1914年9月16日にヘルゴラント基地から出航する予定でした。ヴェディゲン大尉に与えられた任務は、ベルギーのオステンド周辺海域におけるフランスおよびイギリス艦船の動向偵察でした。ところが当初、ドイツ乗員たちは不運に見舞われます。北海を襲った激しい嵐のため、出港は3日間延期されたのです。
2日後、オランダのアメランド島付近で羅針儀が故障し、乗員は目視観測のみで航行せざるを得なくなりました。海は依然として荒れており、そのような状況での航行中、Uボートはオランダのスヘフェニンゲン港の入り口付近に流されてしまいました。ヴェディゲンは、U-9を海底に着底させて嵐の夜をやり過ごすことを決めましたが、船体損傷の危険があるためそれは不可能でした。こうしてドイツ乗員たちは、波にもまれる艦内で過酷な一夜を過ごすことになったのです。
U-9――次の出撃に備えるオットー・ヴェディゲン大尉の艦。今度こそ大型輸送船、あるいは軍艦を海底に送り込めるのでしょうか。
翌朝6時頃、司令塔の見張り員が地平線上にマストの先端を発見したと報告しました。これを受けてヴェディゲンは緊急潜航を下令し、発見した船舶の予想針路上へU-9を進め、目視による識別を試みました。潜望鏡の接眼レンズを覗いた艦長の驚きを想像してみてください。そこにあったのは1隻ではなく、濃い煤煙を吐く3隻の船影。しかもそれらは、イギリス海軍の「クレッシー」型装甲巡洋艦だと確認されたのです。
標的、射程圏内へ
イギリス艦隊は一定の針路を保っており、ジグザグ機動を行う気配もなく、護衛艦の姿はどこにも見えませんでした。まるで自ら砲火の下に飛び込んでくるかのようでした。ドイツ艦では直ちに戦闘配置が敷かれ、魚雷発射に必要な射撃諸元の算出が始まりました。最も近いイギリス艦までの距離は、わずか約500メートル……。
発見された巡洋艦「クレッシー」「ホーグ」「アブーキア」は、迫る危険に気づくことなく、オランダ沿岸沿いの哨戒任務を続けていました。艦内ではいつもの朝の雑事が淡々と進められていました。海は見渡す限り穏やかで、小さな漁船一つ見当たりません。迫り来る悲劇を予感させるものは、何ひとつありませんでした。
総勢そろったU-9の乗員たち。王立海軍を打ち破ったのは、まさにこの水兵たちと士官たちだったのです(出典:Bundesarchiv; lic. CC BY-SA 3.0)
襲われる艦隊
突如、艦隊の先頭を航行する旗艦HMSアブーキアの左舷側に巨大な水柱が上がり、煙の柱が立ち昇りました。艦は激しく揺さぶられ、艦首部分が破壊されると同時に、大きく左舷へ傾斜していきました。巡洋艦および艦隊全体の指揮官ドラモンド中佐は、ただちに信号を掲げさせました。「機雷に触れた。救援を求む……!」しかし、艦の運命はすでに決していたのです。ホーグは乗員救出のため旗艦に接近し、クレッシーも停止して救命艇を降ろしました。
その間、U-9は静かに旋回していました。ヴェディゲン大尉は救出作業を見守っていました。本来なら次の標的は「クレッシー」のはずでしたが、魚雷の進路を遮りかねない救命艇の存在を考慮し、HMSホーグが攻撃対象に選ばれました。同艦には、沈みゆくアブーキアの乗員の大部分がすでに収容されていたのです。6時55分頃、2本の魚雷がホーグの右舷に命中しました。巡洋艦は急速に右舷へ傾斜していきます。今度こそ疑いの余地はありませんでした。それでもイギリス側は、「複数の潜水艦に攻撃されているに違いない」と信じ込んだのです。
HMSホーグが沈没しつつあるHMSアブーキアの乗員救助に向かったところ、ドイツ魚雷の餌食となりました。
最後まで無傷だったHMS「クレッシー」の艦長ロバート・W・ジョンソン中佐は、艦隊の位置と損害を伝える悲痛な電文を海軍本部へ送信しました。巡洋艦群が対潜護衛を一切伴っていなかったことが判明すると、イギリス艦隊司令部はパニックに陥り、直ちに駆逐艦戦隊が現場へ急派されました。
空しい抵抗
一方、オランダ沿岸海域では、イギリス巡洋艦の悲劇の幕切れが進行していました。ジョンソン中佐は自艦の主砲による射撃を命じます。「クレッシー」は盲目的に砲撃を浴びせ、水中の敵を追い払おうとしました。沈みゆくホーグもまた、同じように砲撃を続けました。ホーグの艦長ニコルソン中佐は、乗員に対して防寒具を着用し、浮くものすべてを身につけるよう命じていました。しかしそれらは、ますます左舷へ傾いていくホーグの最期の瞬間でした。午前7時15分、同艦はついに北海の波に呑まれたのです。
HMSクレッシー――必死の反撃も実を結ばず、イギリス艦隊の僚艦と同じ運命を辿りました。
巡洋艦の砲撃がU-9に損害を与えたことは言うまでもありませんでしたが、戦後の尋問では、「クレッシー」の砲術兵の一人が「潜水艦の一隻に3発目か4発目の砲弾が命中した」と証言していたといいます。ヴェディゲン大尉は、不運な艦隊の最後の生き残りにとどめを刺す準備を整えていました。イギリスの海の男たちにとって不幸なことに、それはもはや形式的な仕上げにすぎませんでした。
危険海域を離れることもできたジョンソン中佐は、あえて留まり、救出作戦の続行を決断します。ホーグ沈没のわずか5分後、HMSクレッシーは2本の魚雷を受けました。うち1本は缶室に命中し、猛烈な二次爆発を引き起こしました。巡洋艦にはもう救命艇が残っていなかったため、乗員は浮くものなら何でも海へ投げ込み始めました。それでもジョンソン中佐の冷静な指揮のおかげでパニックは回避され、避難は驚くほど平穏に進められたといいます。
オットー・ヴェディゲンとその乗員の華々しい戦果を記念して作られたドイツの絵葉書。
しかし、巡洋艦はドイツ側が望むほど早く沈みませんでした。ヴェディゲンは不運な艦へのとどめを命じ、U-9は再び致命的な「葉巻」――魚雷を放ちました。午前7時35分、クレッシーは横転して沈没しました。3隻合わせて1,443名が命を落とし、勇敢なジョンソン中佐もその中に含まれていました。
「不敗艦隊」神話の終焉
ドラモンド中佐の艦隊が受けた悲劇は、自国艦隊に匹敵するものはないと信じて疑わなかったイギリス国民にとって、正真正銘の衝撃でした。この事件は、ドイツのUボートという新種の脅威への対処にまったく無準備だった王立海軍の脆弱さを白日の下に晒しました。その結果、ドラモンド中佐を含む複数の高級将校が職務上の責任を問われることとなりました。
オットー・ヴェディゲン大尉の戦功により、彼はドイツの国民的英雄となりました。写真は9月22日の作戦で授与された一等鉄十字章です。
ヴェディゲンの勝利の余波はさらに広がりました。イギリス社会の広範な層に蔓延する反独感情に押され、ドイツ出身の海軍本部第一海相ルイス・バッテンベルク提督が辞任に追い込まれたのです。加えて、イギリスの海軍将兵の間には本物の「Uボート恐怖症」が蔓延しました。艦隊の主力部隊さえ、ドイツ潜水艦の攻撃から守るべく、より遠方の基地へ退避させられる始末でした。
帝国海軍初の「エース」
ヴェディゲン大尉は栄光の中でドイツへ帰還しました。皇帝ヴィルヘルム2世自らが、彼個人と艦旗に対して一等鉄十字章を授与しています。オーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフも同様の顕彰を行いました。そして3週間後の1914年10月15日、ヴェディゲンはアバディーン沖でさらなるイギリス巡洋艦HMSホークを撃沈します。この4度目の戦果により、オットー・ヴェディゲンはUボート艦長として史上初めて、ドイツ最高位の勲章「プール・ル・メリット」を授与されました。
しかし、戦争の女神は1915年3月18日、彼のもとを去ります。指揮する新型艦U-29が、戦艦HMSドレッドノートに体当たりされて沈没したのです。艦長を含む乗員全員が戦死しました。帝国海軍初の潜水艦エースは、その短い伝説を閉じたのです。
編集:クシシュトフ・ハバ/写真編集:ラファウ・クザク