第一次世界大戦における最激戦の地、イーペル
ベルギー西部フランドル地方に位置する町イーペルは、第一次世界大戦において最も激烈かつ悲惨な戦闘が繰り広げられた場所の一つです。ドイツ軍の進撃路と英仏海峡の港湾都市を結ぶ要衝であったことから、開戦から終戦までの間に3度の大規模な会戦がこの地で発生し、両軍合わせて50万人以上の死傷者を出すことになりました。
第一次イーペル会戦(1914年10月19日〜11月22日)
第一次イーペル会戦は、イギリス陸軍が西部戦線で挑んだ最初の大規模な戦いでした。約1か月にわたり、イギリス海外派遣軍(BEF)とその同盟軍(主力はフランス軍)は、英仏海峡の港への突破を目指すドイツ軍の執拗な攻勢を必死に食い止めました。
会戦は最終的に膠着状態で終わり、ドイツ軍の突破は阻止されました。しかしその代償はあまりにも大きく、BEFは当初の兵力のほぼ半分に相当する壊滅的な損害を被ったのです。この戦いは「老朽部隊の消滅」と呼ばれるほど、開戦当時の正規軍が事実上消耗し尽くされた転換点となりました。
第二次イーペル会戦(1915年4月22日〜5月25日)
第二次イーペル会戦は、戦争史に残る忌まわしい「第一」が生まれた戦いです。ドイツ軍が史上初めて塩素ガスを兵器として実戦投入したのです。
黄緑色の毒ガス雲が連合国軍の前線を覆うと、フランス領植民地部隊を中心に壊滅的な被害が発生し、前線は崩壊して一時的な撤退を余儀なくされました。しかし連合国軍は急造の防護策と増援によって態勢を立て直し、最終的には防衛線の維持に成功しました。この会戦以降、毒ガスは第一次世界大戦の象徴的な兵器となっていきます。
第三次イーペル会戦=パッシェンデールの戦い(1917年7月31日〜11月10日)
第三次イーペル会戦は「パッシェンデールの戦い」の名でも知られ、第一次世界大戦全体を通じて最も血なまぐさく、犠牲の大きい戦いの一つに数えられています。
戦いは、戦略的に重要なパッシェンデール周辺の尾根地帯の支配権をめぐり、連合国軍(主力はイギリス軍とカナダ軍)とドイツ軍との間で繰り広げられました。豪雨で戦場は泥沼と化し、兵士たちは泥濘に足を取られながら戦わなければなりませんでした。戦闘は激烈を極め、双方合わせて30万人以上が死傷する甚大な結果に終わりました。
イーペルの戦いが残したもの
第一次世界大戦中のイーペルでの戦いにより、合計50万人以上の兵士が命を落としたり負傷したりしました。現在、イーペルの町には戦没者を追悼するメニン門が建ち、毎晩「ラストポスト」の号曲が奏でられ続けています。
イーペルでの戦闘は、大戦全体の中でも最も残酷で無で無駄な犠牲を強いたものとして人々の記憶に刻まれており、戦争の愚かしさを今に伝える象徴となっています。