海上戦争の真の先駆者たち
第一次世界大戦の海上戦では、航空母艦の登場、潜水艦の大量運用、そして潜水員による軍港への奇襲攻撃といった新時代が幕を開けました。その分野において、イタリア人は紛れもない先駆者でした。彼らは卓越した創意工夫と並外れた勇気を示し、やがて英雄として讃えられることになります。
大戦勃発後、交戦する両陣営はイタリア王国を味方につけようと画策しました。1915年5月23日、イタリアは協商国側で参戦します。これは中央同盟国、とりわけオーストリア=ハンガリーにとって深刻な打撃となりました。同国艦隊は、フランス・イギリス・イタリアの連合海軍と対峙せざるを得なくなり、一気に追い込まれることになったのです。
しかし、圧倒的に有利な状況にありながら、イタリア海軍はアドリア海で優位を確保できませんでした。オーストリア=ハンガリー帝国王立海軍は「艦隊的存在(Fleet in being)」というドクトリンを堅持し、自国の港湾に留まるだけで敵艦艦隊を牽制する消極的な戦略をとり続けたのです。
意気消沈するオーストリア、評判を落とすイタリア
敵の開戦回避姿勢、中央同盟国側Uボートの活躍、そして戦艦「レジナ・マルゲリータ」「ベネデット・ブリン」「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が相次いで失われるという痛ましい損害は、イタリア海軍の評判を、連合国諸国のみならず自国民の目からも大きく傷つけました。
こうした中、イタリア海軍内部で敵港湾を攻撃するための特殊突撃部隊を創設する構想が誕生します。特別な水上・水中装備を用いて、ポーラ(現在のクロアチア領プーラ)にあるオーストリア=ハンガリー海軍基地へ到達することを目標としたのです。
同基地には強固な防御施設が整っており、実際に1914年12月8日、港内への侵入を試みたフランス潜水艦「キュリー」は撃沈されています。
失敗に終わった最初の試み ― 「忘れっぽいイタリア人」
まず建造されたのは、木製の防材(堰)を越えるための履帯を装備し、450mm魚雷2本を搭載した小型魚雷艇4隻(カヴァレッタ、プルチェ、グリッロ、ロクスタ)でした。
1918年4月13日夜から14日未明にかけて行われた最初の作戦は惨憺たる結果に終わります。ハプスブルク艦隊の主力艦に接近できなかったため、乗員は艇が敵の手に渡るのを防ぐべく自沈させたのです。
1か月後、マリオ・ペッレグリーニ大尉が指揮する「グリッロ」号が再び出撃しました。艇は戦艦「ラデツキー」に接近し、魚雷2本を発射。ところがイタリア兵たちは爆薬の安全装置を外すのを忘れていたため、何の効果もありませんでした。結局、この艇は哨戒艦の砲火によって沈められています。
致命的な「ヒル(ミニャッタ)」の誕生
人が操縦する有人魚雷による攻撃という発想は、早くも1915年9月に登場していました。提案者は技術将校ラファエーレ・ロセッティ少佐で、彼はこの計画を海軍上層部に提示しました。しかし当局からの関心を得られなかったため、この意欲的な将校は自らの力で開発を続けることになります。
1918年3月9日、ロセッティは自作の魚雷による試験に成功。今度こそ海軍参謀本部がその価値を認め、「ミニャッタ(ヒル)」と命名されたこの兵器の実戦投入が決定されました。
ミニャッタはイタリア製450mm魚雷の改造版です。全長4.5メートル、速力は最大4ノット。特殊な潜水服を着た潜水員2名と、磁石式吸盤を備えた170kgの爆薬を収めた金属容器2個を半没水状態で運搬する役割を担いました。

「ヒル」、ついに出撃す
1918年10月6日、中央同盟国はアメリカ合衆国に和平交渉の開始を打診しました。イタリアにとって、これはミニャッタを実戦で使う機会が失われるかもしれないという警告信号でした。そこで作戦の即時実行が決断されます。
同年10月31日、破壊工作班は魚雷艇「PN65」に乗り込み、ヴェネツィア港を出発しました。目指すはポーラの帝国王立海軍基地です。この作戦を指揮したのはコスタンツォ・チャーノ中佐――後にムッソリーニの娘婿となるイタリア外務大臣の父親にあたる人物でした。
攻撃を担うのは、ミニャッタの生みの親であるロセッティ少佐と、軍医のラファエーレ・パオルッチ大尉の2人です。港の入口から数マイル沖で魚雷が進水すると、モーターボートに曳航されて目標から約0.5kmの地点まで運ばれました。
2人の潜水員は第1の防潜網を迂回して港内へ侵入。さらに3つの防材を越え、冷たい雨の中、目標地点へたどり着きます。そこにあったのは、オーストリア=ハンガリー海軍の旗艦、戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」でした。
思いがけない光景
イタリア人を驚かせたのは、戦時規則に反して艦が灯火を点けたまま停泊しており、隠密接近が非常に難しくなっていたことです。午前5時頃、ロセッティ少佐は1個目の爆薬を作動させ、戦艦の喫水線下、150mm砲第4番と第5番の間の船体に磁着させました。
しかし2個目の爆薬は設置できませんでした。潜水員たちが艦の乗員に発見されたのです。捕虜となる直前、パオルッチ大尉は2個目の爆薬を水中へ放棄し、2人の勇者はミニャッタを沈めたうえで投降しました。
予期せぬ事態 ― 艦はすでにハプスブルクのものではなかった
戦艦に収容された2人が知ったのは驚くべき事実でした。この艦は、10月30日をもってすでに新生セルビア側へ全面移譲されており、もはやハプスブルク艦隊には属していなかったのです。この決定を誇らしげに公表した結果、港内の艦艇は指揮幕僚の大部分を欠いた状態にありました。士官の多くはオーストリア、チェコ、ドイツ、ハンガリー出身で、艦隊司令長官ミクローシュ・ホルティ提督とともに既に港を去っていたのです。
血まみれの収穫
そのとき、イタリア人将校たちは艦長ヤンコ・ヴコヴィチ・デ・ポドカペルスキー中佐に対し、船底に爆薬が仕掛けられていることを伝えました。乗員全員の退艦を命じた彼の決断は、艦内に大混乱をもたらします。
結局、午前6時44分、爆発が起こりました。ロセッティとパオルッチは救命ボートで無事に脱出し、目標の最期を見届けることになりました。数分後、巨大な戦艦は転覆。400名を超える水兵が命を落とし、艦長もその一人でした。犠牲者の大半は、沈没する巨艦が引き起こした渦潮に呑み込まれたといいます。
2人は旧式戦艦「ハプスブルク」へ移送されましたが、そこで二度目の爆発音を耳にします。パオルッチ大尉が放棄した爆薬は漂流し、港内に停泊していたドイツUボート支援母艦「ウィーン」(基準排水量7,367トン)に付着、こちらもまた沈没したのです。こうして史上初となる、完全な成功を収めたイタリアの有人魚雷作戦が幕を閉じました。
皮肉な悲劇的過ち
1918年11月5日、プーラの基地はイタリア軍によって占領されます。同時に、公式には同盟国セルビア王国の所属となっていた港内のすべての艦船が、ダルマチア沿岸を巡ってライバル関係にあったその国家を強化したくないイタリア側によって接収されました。
しかし皮肉なことに、彼らが手に入れられるはずだった最も価値ある艦は、ほんの数日前に自らの手で沈めてしまったのです。
ロセッティとパオルッチはほどなくしてイタリアへ凱旋し、数々の栄誉が待ち受けていました。2人はチャーノ中佐とともに、イタリア最高位の軍事勲章であるサヴォイア軍事勲章を授与されます。さらにそれぞれ65万リラの賞金も手にしました。
しかし名誉あることにも、この賞金の大部分は、ヴィリブス・ウニーティス号と運命を共にした水兵たちの未亡人へと贈られたのです。
ロセッティとパオルッチの成功は、イタリア海軍特殊突撃部隊の発展に大きな弾みをもたらしました。その頂点に立つのが、後に名を馳せる第10MAS小艦隊(Xª MAS)の創設です。そして彼らの最大の戦果は、1941年12月に敢行されたアレクサンドリア湾襲撃作戦として歴史に刻まれることになります。