歴史物語

ダイナモ作戦――ダンケルクから33万8千人を救い出した奇跡の大撤退

1940年5月――ドイツ軍の西進と連合軍の絶体絶命

1940年5月。ドイツ軍は猛スピードで西へ進撃し、フランスは崩壊の淵にあった。イギリス軍に残されたのは、ほんのわずかな土地だけ。もはや撤退以外に道はなかった。しかし皮肉なことに、この大撤退を可能にしたのは、ほかならぬアドルフ・ヒトラー自身だったのである。

この撤退は、幸運な偶然が重ならなければ実現しなかったかもしれない。順を追って見ていこう。電撃戦は西部戦線でも展開され、フランス軍は粉砕された。ドイツ国防軍の急速な進撃により、イギリス遠征軍、フランス第1軍、ベルギー軍は、カレーとオステンドの間の狭い一帯に孤立してしまう。総勢50万人近い兵士である。

撤退計画

ドイツ装甲部隊の勢いは止まるところを知らなかった。進撃は続き、連合軍が安全に留まれる地域は狭まる一方。やがてドイツ軍は英仏海峡の海岸線に到達し、都市をひとつひとつ切り離していった。そして5月22日、ハインツ・グデーリアン将軍指揮下のドイツ軍(かつてヴィズナで、後に英雄的な最期を遂げるウワディスワフ・ラギニス大尉に足止めを食わされた、あの人物である)がブーローニュの占領に着手し、カレーを包囲した。連合軍が撤退拠点として使える港は次々と失われ、事実上残されたのはダンケルク一箇所のみとなった。

実はイギリス側では、数日前から撤退が検討されていた。1940年5月19日、ゴート将軍(本名ジョン・ヴェレカー)は、遠征軍の撤退計画を陸軍大臣アンソニー・イーデン卿に提出していたのである。

ダイナモ作戦――ダンケルクから33万8千人を救い出した奇跡の大撤退

ダンケルク撤退(1940年)で使用された3つの輸送航路のおおよその位置を示す地図。

こうして残ったのはダンケルクだけ。それはロンドンだけでなく、ドイツ軍の指揮官たちも十分に承知していた。打撃を強化し、逃げる敵をより速く追い詰めるため、グデーリアンの部隊には追加戦力が与えられた。エヴァルト・フォン・クライスト将軍は彼に1個装甲師団を付け与えたが、その師団はダンケルクではなくカレー方面へ向けられた。そこでグデーリアンは、カレーからさらに強力な別の師団を引き抜いた。彼にとっての優先目標はカレーの攻略ではなく、ダンケルクへの攻撃だったからである(カレー陥落はどのみち時間の問題だったとはいえ)。

思いがけない「援護射撃」

5月23日、ドイツ軍の先頭部隊は、あと25キロまで迫ったことを示す標識を目にした。親衛隊連隊「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」も攻撃に投入され、グデーリアンはブーローニュからも予備兵力を呼び寄せた。あと数時間で最後の一撃を加えられるはずだった。ところが翌24日、「偉大なる」アドルフ・ヒトラーが直々の命令で――攻撃の即時停止を命じたのだ。抗議はまったく受け付けられなかった。

なぜそんなことが起きたのか? 命令書には、残敵は空軍(ルフトヴァッフェ)が片付けるという文言が添えられていた……もちろん、後に空軍はその役割を見事に「果たせなかった」のだが。ヘルマン・ゲーリングは過剰な野心に取り憑かれていたのか? 最後の一撃の手柄を独り占めしたかったのか? それともヒトラー自身が、後のイギリスとの講和交渉に備えて扉を開けておきたかったのか? 真相はおそらく永遠に謎のままだろう。

逆さのDデー

これこそ、クレイグ・サイモンズの著書が「ダイナモ作戦」を評して用いた表現である。ちなみにノルマンディー上陸作戦とダイナモ作戦には、もうひとつ共通点がある。両作戦を組織したバートラム・“バーティー”・ラムジー提督の存在だ。ダイナモ作戦において積み込みの指揮を執ったのはウィリアム・ジョージ・テナント中佐で、ラムジーは彼にこう伝えた。「あなたの船が救い出す一人の兵士、一挺の小銃が、すべてイギリス本土防衛のために役立つのだ」と。撤退に使える船舶は、ありとあらゆるものをかき集める必要があった。駆逐艦はノルウェー沖まで探し回られた。こうして集まったのは、駆逐艦39隻、掃海艇36隻、曳航船34隻、貨物船およびトロール船113隻からなる一大「艦隊」である。さらに客船、病院船、漁船なども加わった。要するに――兵士をあの海岸から運び出せるものなら何でも、ということだ。

当初イギリスは、自国の遠征軍の撤退のみを考えていた。船に乗り込んだフランス兵には下船命令まで出されたのである。その後になってようやく、ウィンストン・チャーチルはフランス人をイギリス人と対等に扱うことを決めた。

救出艦隊と海岸の悲劇

ダンケルクからの撤退は、危険きわまる後方支援作戦だった。ルフトヴァッフェは連合軍部隊の撃滅には失敗したものの、港湾施設には甚大な破壊を与えていた。輸送船が入港を試みれば、1隻が沈没し、もう1隻は大破した。これはつまり、兵士を浜辺から直接収容するしかないことを意味した。しかし地形の関係で、駆逐艦は600メートル以内には接近できなかった。「乗客」たちはどうやって船に乗り移ればよいのか? 答えは小型ボートだった。ここから争いとドラマが生まれる。誰もが飛びつこうとし、一度過積載になったボートから降りようとする者はいない。それでいて、舷側では縄ばしごを登らねばならないのである……

ダイナモ作戦――ダンケルクから33万8千人を救い出した奇跡の大撤退

ダイナモ作戦で使用されたイギリスの漁船タムジーン。

やがて「スクイトヘス」と呼ばれるオランダ製のはしけも加わった。それでもまだ少なすぎ、遅すぎた。そこで使えるものは何でも現場に集められた。中には王立海洋レーシングクラブ所有のヨットまであり、さらにはテムズ川を走るボートまでもが動員されたのだ!

もう一つの悲劇の舞台となったのが、防波堤の一角に設けられた桟橋で、兵士たちはここで収容の順番を待った。この桟橋に足を踏み入れれば、もはや後戻りはできない。絶え間ない爆撃と砲火の中での長時間の列待ち。必要なのは鋼鉄の神経だった! しかも乗船を果たしても、安全は保証されていなかった。満載状態の駆逐艦HMSウェイクフルは魚雷を受けて沈没し、乗員の大半と639人の兵士が命を落とした。生存者はわずか1人だった。

ダイナモ作戦の結果

イギリス兵とフランス兵を退避させる作戦全体は、5月26日から6月4日――実際には6月3日まで続いた。6月2日から3日にかけての夜、約4,000人からなるイギリス後衛部隊がダンケルクを脱出した。搬出不能な重傷のイギリス兵265人が現地に取り残された。合計338,226人が救出され、そのうち123,095人がフランス兵だった。約4万人が後に残される形となった。その後もシェルブール、サン・マロ、サン・ナゼール、ブレストからさらに約22万人が避難しており、合計では約56万人に達する。しかし、ダイナモ作戦は「ダンケルクの奇跡」と呼ばれるに値するのだろうか? チャーチルは「戦争は撤退によって勝ち取られるものではない」と痛烈に評している。

ダイナモ作戦――ダンケルクから33万8千人を救い出した奇跡の大撤退

1940年6月4日、ダンケルクの浜辺に連合軍が置き去りにした装備品。

作戦全体には848隻の各種船舶が参加し、うち235隻は二度と帰還しなかった。イギリス・フランス両国の海軍に損害が出たのである。駆逐艦はイギリス6隻、フランス3隻が沈没し、さらに19隻が程度の差こそあれ損傷した。ここで特筆すべきは、ポーランド海軍の駆逐艦2隻も作戦に参加していたことだ。「ブリスカウィツァ」と「ブルザ」である。残念ながらブルザは戦闘の初期段階で戦列を離れることになった。爆弾2発を受け、修理のため後送されたのである。一方、ダンケルクの港内にまで入り込んだブリスカウィツァは戦場に長く留まった。その任務は、避難作戦に従事するイギリス駆逐艦の掩護であった。同艦は5月31日、来たる決戦に備えて戦力を温存するため、最新鋭のイギリス艦艇とともに呼び戻された。

置き去りにされた装備の山

この撤退全体を語るうえで、最も印象深いのは、イギリス・フランス両軍が浜辺に残した装備の量である。写真でおなじみの歩兵用ヘルメットにとどまらず、戦場で決定的な差を生み得る重装備まで、一切持ち出すことができなかった。残されたのは、火砲2,472門、戦車445両、各種車両12万台(!)、小銃9万挺、そして山ほどの弾薬である。

しかし同時に、多くの命が救われたのも事実だ。救出された兵士の多くは、後のナチス・ドイツに対する最終的な勝利に貢献することになる。この状況全体の最大の皮肉は、彼らが間接的に、アドルフ・ヒトラーの非合理的な(?)決断によって命を救われたという点である。

参考文献

  1. N. Cawthorne, The Decisive Battles of World War II, Bellona, ワルシャワ, 2009年
  2. T. Górski, Polska marynarka wojenna 1939-1959, "Civitas Christiana" ポモージェ支部, グダニスク, 2001年
  3. A. Perepeczko, Operacja „Dynamo”, 海事出版局(Gdynia), グディニア, 1966年
  4. C. Symonds, World War II at Sea: A Global History, Znak Horyzont, クラクフ, 2020年