魔法は人類の歴史の夜明け以来、常に人とともにありました。魔術に関する最古の記録は、古代メソポタミアやバビロニアにまで遡ります。しかし、魔法に関する文献が特に盛んに書かれたのは中世の時代でした。
中世ヨーロッパにおける魔法への見方は、現在のイメージとは大きく異なっていました。当初、その姿は必ずしも否定的なものではなく、古代文明の叡智、異教の信仰、そしてキリスト教が融合したものでした。ところがこの時代の終わりとともに、教会はあらゆる魔術的実践との闘争に乗り出します。それでも中世を通じて、ヨーロッパでは膨大な数の魔法の手稿が生み出され続けました。今日、私たちはそれらを「グリモワール」と呼んでいます。
グリモワールの形と内容
「グリモワール」という言葉は、フランス語の「グラメール(grammaire)」に由来します。18世紀のフランスでは、この語はラテン語で書かれたあらゆる著作を指して使われていましたが、俗語においては「魔法の本」を意味しました。当時の人々は、秘密の知識は容易に手に入るものであってはならないと考えていたため、次第に読めなくなりつつあったラテン語で綴られた書物こそ、魔法について書かれた本に違いないと思っていたのです。
しかし、秘術を学ぶ者にとって大切だったのは、グリモワールに何が記されているかだけではありません。それが「どのように、何で作られたか」も同じくらい重要でした。中世初期には、新たな筆記材料として羊皮紙(パーチメント)が登場します。とはいえ、すべての羊皮紙が魔法の知識を記すのにふさわしいわけではありませんでした。中世の手稿には、性成熟に達していない動物の皮に書かれることも多かったのです。

『大アルベルトゥス(Le Grand Albert)』1755年版の扉ページ
「魔法の」羊皮紙の製造には、動物の羊膜袋が使われることもありました。本に使う革が他人の手で「冒涜」されないよう、魔術師自身が動物を屠らねばならなかったケースさえあったといいます。加えて、魔法の公式を何で書き留めるかも重大な問題でした。手稿が動物の血や祝福されたインクで書かれたことは決して珍しくありません。
ゾロアスターからソロモン王へ
中世ヨーロッパの魔法観は、近東、ギリシャ、ローマ、ビザンツといった古代文明の成果によって形作られました。長い歳月の中で、これらの文化それぞれに「偉大な魔術師」と目される人物が登場します。伝説的な魔術師のパンテオンには、例えばゾロアスター、エノク、キュラニデス、魔術師シモン、ヘルメス・トリスメギストスなどの名前が並びます。自らの著作に信憑性を与えるため、グリモワールの作者たちは作品の名前をこうした古代の偉人に結び付けたのです。そして中世で最も人気の高い魔術師こそ、ソロモン王でした。13世紀の神学者・哲学者アルベルトゥス・マグヌスは、彼にちなんだ魔法書が実に5冊も存在すると報告しています。その第一が、いわゆる「ソロモンの遺訓(テスタメント)」です。

ソロモン王とその妻
この書物は、エルサレム神殿の建設を妨げる悪魔たちと戦うイスラエル王の姿を描いています。その記述によれば、大天使ミカエルがソロモンに、悪霊を支配する力を宿した指輪を授けたとされます。「ソロモンの遺訓」は聖書の寓話としてではなく、むしろオカルトの教科書として受け取られていました。ある写本には、欄外に魔術実践のための指示が書き込まれていたほどです。
しかし、ソロモンにまつわる書物として最も著名なのは、「アルマンダル」「アルス・ノトリア」、そして別名「ソロモンの大いなる鍵」と呼ばれる「クラウィクラ・サロモニス」です。
これらは本格的なグリモワールであり、魔法の儀式や悪魔召喚の手順を段階的に詳述していました。さらに恋愛の呪文、邪悪な呪いの掛け方、姿を消す方法、さらには中世の自由七科を習得する術まで網羅していたといいます。
寛容から弾圧の時代へ
一定の時期まで、中世は秘められた知識の探究が比較的寛容に受け止められていた時代でした。教会もまた柔軟で、異教社会に根付いた習慣を改変した上でキリスト教の実践に組み込むことさえありました。魔法の書や呪文にも、同様の過程が見られます。古英語の手稿「ラクヌンガ(Lacnunga)」には、主神オーディンへ捧げられた異教の呪文と、キリスト教の祈りが併せて収められていたのです。

教皇アレクサンデル4世は、異端審問官に対して魔術の調査を控えるよう念を押した
薬草を扱う「プセウド=アプレイウス薬草誌」は主の祈りで始まりますが、原典ではそこが「聖なる大地の母」への呼びかけでした。7世紀には、聖イシドールスがセビリアで、教会にとって危険性の低い魔法と悪魔的な魔法とを区別しました。1258年には、教皇アレクサンデル4世が異端審問官に対し、後者以外の魔術を調査しないよう指示したほどです。悪魔的な魔法の存在が認められていたとしても、13世紀末までは魔女裁判はごく散発的な出来事にとどまっていました。
さらに興味深いことに、当時魔法書と最も深く関わっていたのは、司祭や修道士たちでした。修道院の図書館はあらゆる種類のグリモワールで溢れ、修道士たちは熱心な研究を慎むどころか積極的に行っていました。魔法の書に触れられたもう一つの場所が大学です。大学特有の空気と中世の学生たちの開かれた好奇心は、秘密の知識をも含むあらゆる知の探究を促しました。
アラビアの叡智
サラセン人によるイベリア半島の征服と十字軍の遠征は、中世の人々がアラビア文化の成果に触れる機会を格段に広げました。そのため、魔法に関する情報を求める者は、トレドやセビリアのアラビア系図書館を訪れることができたのです。13世紀のヨーロッパには「自由学芸はパリで、法学はボローニャで、医学はサレルノで、そして悪魔はトレドで学べる」という言い回しが流布していたほどです。これを象徴するように、中世屈指の名高いグリモワール「ピカトリクス(Picatrix)」はスペインで生まれました。

スロバキア国立図書館に所蔵されるピカトリクスの断片
真の作者は不明ですが、224冊を超えるアラビアの魔法書を総合した集大成であるとされています。「ピカトリクス」は12世紀にアラビア語で著され、翌世紀にカスティーリャ王アルフォンソ10世(賢王)の命によりラテン語へ翻訳されました。ソロモンに帰せられる諸作品とは対照的に、「ピカトリクス」は星霊魔法、護符やタリスマンを作る技、そして星座を読み解く術に重点を置いていました。中東が魔法観に与えた影響のもう一つの例が、ユダヤ神秘主義哲学であるカバラーの誕生です。
カバラーは、11世紀から13世紀にかけてイタリア、ドイツ、スペインで著された書物群を基礎として形成されました。中でも重要なのが「敬虔者の書」「光輝の書」「光の書」です。これらは哲学的・宗教的なテーマに加え、夢占い(オンブロマンシー)、手相術、悪魔召喚術への言及をも含んでいました。
すべてを燃やせ
13世紀末から14世紀にかけて、教会は魔術に対する姿勢を劇的に転換させます。1326年、教皇ヨハネ22世は勅書「スーペル・イリウス・スペクラ(Super illius specula)」を発布し、魔法を正式に異端的な実践と断罪しました。
続く1376年には、アラゴン出身のドミニコ会士にして神学者のニコラウ・アイメリックが「異端審問官指南書(Directorium Inquisitorium)」を著します。これは異端審問官のための実務書ともいうべきもので、魔法が痛烈に糾弾されていました。

「魔女に槌を打つ(Malleus maleficarum)」――1520年刊行の第七版の表紙
同様のテキストはヨーロッパでますます頻繁に現れ、ついに1486年、ハインリヒ・クラーマーが悪名高い「マレウス・マレフィカルム」、すなわち「魔女に槌を打つ」を出版しました。その直後からヨーロッパ各地に火刑台が築かれていきます。そこで焼かれたのは、教会に禁じられた書物だけではありません。魔法を操ったとして告発された、多くの「魔女」たちの命でもあったのです。