推定50万点超、失われたポーランドの文化財
第二次世界大戦中にポーランドが被った文化財の損失を正確に評価することは非常に困難です。50万点を超える美術品が略奪され、隠匿され、あるいは破壊されたと推定されています。
ポーランド文化財の略奪は、1939年9月のポーランド侵攻直後から始まりました。ドイツ占領イツ占領軍による綿密に計画された組織的な強奪でしたが、ソ連もまた祖国の美術品を持ち去っていきました。同年、ポーランドの研究者たちは返還請求の登録を開始し、被害状況を示す一覧表の作成に着手しました。占領期間中も文書化作業は続けられましたが、目録帳そのものが侵略者によって意図的に破壊されていたため、望まれるほど精密な記録にはなり得ませんでした。
戦争の混乱の中で失われたのは、美術館の所蔵品だけではありません。世代から世代へと受け継がれてきた個人コレクションの貴重な品々もまた、姿を消していきました。その行方は何十年もの間不明のままとなり、やがて古い屋根裏部屋で、あるいはオークションハウスの競売で、驚くべき形で突如発見されることになります。確かに多くの美術品が失われましたが、すべてが失われたわけではありません。歴史は教えています。行方不明の作品は、文字通りどこにでも隠れているかもしれないのだと。
短い記述だけが手がかりだった絵画
レオン・ヴィチュウコフスキが1883年に描いた、メランコリックで魅惑的な絵画「画家のアトリエにて」は、第二次世界大戦中にワルシャワ国立博物館から盗まれた作品のリストに載っていました。写真による記録は残っておらず、短い説明文だけが唯一の手がかりでした。「喪服を着た若い女性が画家のアトリエに立ち、写真を手にして、若い男性の肖像画を見つめている」。キャンバスの寸法も分かっていました。60.5×31cm、額装込みで101×72.8cmです。
1945年から1949年にかけて実施された回収活動でも、この絵画を取り戻すことはできませんでした。作品に関する情報は完全に途絶え、石が水に沈むように消えてしまったのです。それが数十年後にようやく浮上します。ウウォジミェシュ・カリツキとモニカ・クーンケの著書『略奪された芸術2 コーヒーグラスの下で消えるマドンナ』には、次のような逸話が記されています。
1998年刊行のポーランド絵画戦争被害カタログの共著者である、ワルシャワ国立博物館の美術史家アンナ・ティチニスカは、2009年5月、世界中のオークションハウスの出品情報を閲覧していました。
デュッセルドルフのペーター・カルプシュタイン・クンスト・ウント・アクツィオンスハウス(美術・競売会社)のウェブサイトで、彼女は黒いコートと黒い帽子を身につけ、左肩に傘を掛けた若い女性を目にしました。女性は小さな写真を手にし、イーゼルの上の男性の肖像画を見つめています。ティチニスカは絵画の寸法を確認しました。60.5×31センチ。一致しました!彼女が初めて見たのは、戦前のワルシャワ国立博物館の資料では説明文でしか知らなかった、レオン・ヴィチュウコフスキの「画家のアトリエにて」だったのです。
ヴィチュウコフスキ、博物館へ帰還
ワルシャワ国立博物館はただちに、競売からの引き揚げを申請しました。しかし写真による記録がないため、ドイツのオークションハウスは当館の要請を受け入れながらも、作品を競売から取り下げませんでした。ヴィチュウコフスキの「画家のアトリエにて」は1万8000ユーロでベルリンの美術商に落札されます。そして2年足らず後、買い手はこのキャンバスを再び売りに出したのです。
再出品の情報は、ポーランドのオークションハウス「デサ・ウニクム」の耳に入りました。社長のユリウシュ・ヴィンドプスキは長い間、ポーランド国内で買い手を探しましたが、祖国の作品を救おうという人は現れませんでした。諦めかけた頃、ヴィンドプスキは顧客の友人にあたる、「ウィエンザ・イ・プラクティカ」出版社のヴィトルト・コニェチュヌィと出会います。コニェチュヌィは二つ返事で、自社による購入を決めました。著者たちはこう述べています。
ヴィトルト・コニェチュヌィと監査役会長のロマン・クシェフスキ(同出版社の共同オーナーであり、熱心な絵画コレクターでもある)は、面談一回で、会社の資金をヴィチュウコフスキの絵画に投じることを決めました。二日後、ドイツの美術商は、いつポーランドからの客が訪れてもおかしくないことを知ったのです。
ドイツの美術商は絵画に5万ユーロを要求しました。しかしコニェチュヌィとクシェフスキは、ヴィチュウコフスキの作品を自分たちの手元に置くことなど、一瞬たりとも考えませんでした。「画家のアトリエにて」を買い戻した直後、二人はこの絵画をワルシャワ国立博物館に寄贈しました。現在も同館のポーランド絵画ギャラリーで展示されています。
マドンナはどこに?
1960年代初頭、ヴロツワフのシレジア博物館(現在の国立博物館)の修復工房に、ある司祭がひそかに現れました――と、カリツキとクーンケは著書の中で語っています。――ヴロツワフ大司教区博物館の学芸員であるその司祭は、かなり大きな平たい包みを脇に抱えていました。修復士ダニエラ・スタンキェヴィチと二人きりになると、興奮を抑えながら包みを開けました。「これはクラナハだ。我々の宝物だよ」。
ところが問題がありました。それは名匠クラナハの手になる絵画ではなく、近代の贋作だったのです。スタンキェヴィチはすぐに、「モミの木の下の聖母」が16世紀の作品であるはずがないことに気づきました。慎重な調査と写真資料との比較は、修復士の確信を裏付けました。彼女が研究結果を「美術史紀要」に発表すると、ポーランド美術界に激しい論争が巻き起こりました。本物の「モミの木の下の聖母」はどこにあるのか、そもそもどうやって贋作へのすり替えが行われたのか。研究者たちは眠れない夜を過ごすことになったのです。

老ルーカス・クラナハは1510年頃、「モミの木の下の聖母」をヴロツワフ大聖堂のために描きました。絵画は19世紀までそこに掛けられ、その後、価値の高さゆえに大聖堂の宝物庫に収められました。第一次世界大戦も無傷で切り抜けています。しかし第二次世界大戦中の1943年、連合軍の空襲で作品が破壊されることを恐れたドイツ側は、これを市外へ搬出しました。
その後、聖母が描かれた菩提樹の板に亀裂が入り、修理が必要になっていることが判明します。修復は大司教区博物館職員のジークフリート・ツィンマー神父に委ねられました。1947年、ドイツ人住民の移住政策により、ツィンマーはヴロツワフを去らねばなりませんでした。彼は「モミの木の下の聖母」を持ち去り、代わりに画家仲間ゲオルク・クプケとともに描いた粗末な模写を残したのです。
コーヒーの下のマドンナ
ツィンマーはポーランド兵に荷物検査されると予期し、旅支度を入念に整えました。クラナハの作品を油布で包み、その上にコーヒー入りの魔法瓶を載せたのです。誰一人として、その即席のテーブルが実は貴重な絵画だとは気づきませんでした。
おそらく「モミの木の下の聖母」が市場に現れたのは1960年代後半、スタンキェヴィチの発見がすでに専門家の間で知られていた頃です。ベルリン、ドレスデン、ミュンヘンの美術館は購入を拒否したため、絵画はドイツのみならずスイスの個人コレクターの間を転々としました。国際骨董市場での競売情報が時折流れることもありましたが、決定的な転機が訪れたのは2012年です。著書には次のようにあります。
2012年2月、突然、ヴロツワフ大司教マリアン・ゴウェンビェフスキのもとに、スイス・ザンクト・ガレン司教区を代理する弁護士ラファエル・キューニから、絵画の所有権を証明する書類の提出を求める手紙が届いたのです。
スイスのあるコレクターが「モミの木の下の聖母」をスイスの教会に寄贈していたことが判明しました。スイスの司教たちは当初、作品を売却し、その利益を慈善事業に充てる計画を立てていました。しかし最終的に、彼らは作品をヴロツワフ大司教区に返還することを決めたのです。その後まもなく、長い放浪の末、老ルーカス・クラナハの最も価値ある絵画の一つが、ヴロツワフ大司教区博物館へと戻ってきました。
こうした物語は私たちに楽観的な気持ちを与え、世界のどこかの片隅に、発見され、何年何十年もの時を経て本来の場所に還るのを待っているポーランドの美術品が、まだまだたくさんあるのだという希望を抱かせてくれます。
参考文献
- Kalicki W., Kuhnke M., Sztuka zagrabiona 2. Madonna znika pod kawą(略奪された芸術2), Warszawa 2021.
- Kudelski J.R., Tajemnice nazistowskich grabieży polskich zbiorów sztuki(ナチスによるポーランド美術コレクション略奪の秘密), Warszawa 2004.
- Matelski D., Grabież i restytucja polskich dóbr kultury od czasów nowożytnych do współczesności, Kraków 2006.
- Cranach w modzie(流行のクラナハ), ed. E. Houszka, M. Pierzchała, Wrocław 2017.
- Wrzesiński Sz., Urban K., Skarby III Rzeszy ukryte na Dolnym Śląsku(下シレジアに隠された第三帝国の宝物), Warszawa 2013.

